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引退の日々
その昔、学生時代の友人の結婚式の披露宴で、一度だけ、
余興の歌を頼まれたことがあります。
花嫁の女友達が揃って歌声を披露するシーンは
微笑ましいものなのかもしれませんが、
今と違ってカラオケもそんなに普及してなく、
集まって練習することも数えるほどだったわたしたち5人は
声も小さく、何となくぐだぐだで、もう一つ盛り上がりに欠けたことを
今でも時々思い出します。思い出してしょっぱい気持ちになることがあります。
その時、歌った曲はKANの「愛は勝つ」という曲でした。
1990年発売で、200万枚のCDセールスがあった大ヒット曲、
その後もCMなどにも何度か使われたこともあるので
年齢を問わず知っている人も多いでしょう。
その当時、披露宴で友人が歌う歌は、男性なら長淵剛の「乾杯」、
女性ならチェリッシュの「てんとう虫のサンバ」しかありませんでした。
大げさでなく、この2択だったのです。
それから7年後、1997年に安室奈美恵が
「CAN YOU CEREBRATE?」を出すまでは。安室奈美恵が来年に引退するというニュースを
帰りの電車の中で知ったわたしは、その日は大人しく帰るつもりだったのに、
思いのほか気持ちがザワついて、途中下車。なじみの店に寄っていました。
「ちょっとー、安室奈美恵引退だってー」と言いながら、
店に入った時の居合わせた人たちの反応。
「えー、まじでー」「なんでー」「いつー?」
「アタシ、安室奈美恵好きじゃないのよねー」、
それはさまざまでしたが、
もちろん「それ誰?」という人はひとりもいませんでした。
そこからカラオケが始まったのですが、誰かが最初に入れた曲は
「CAN YOU CEREBRATE?」でした。
しかし安室奈美恵の曲は、結構難しく、
意外とカラオケ映えしないということに気付いて、
しばらくすると、みな思い思いの曲を歌いだし、よもやま話が始まり、
いつもの夜に戻っていきました。そうです、デビューから25年を経たちょうど40歳の今、
引退することを決めた平成の歌姫は
歌もパフォーマンスも、凡百のタレントとは一線を画していて、
誰もがカラオケで歌えるような親しみや軽さとは無縁です。
沖縄出身、不遇の時代を経て、
小室哲哉プロデュースになってからヒット曲を連発。
人気絶頂の時に、若くして結婚したことや、その後の出産(息子はもう大学生だとか)、
離婚、身内の不幸など、何となく影がつきまとうのも、魅力の一面でしょう。
わたしは熱心なファンではありませんが、
歌番組に出るといえば気になるし、CDも何枚かは持っています。このタイミングでの惜しまれながらの引退、その潔さがスターだなと思います。
昭和の芸能通としては、どうしても山口百恵と比べてしまいますが、
その辺の話は年寄りの昔話、うざがられるのでやめておきます。それにしても来年は平成30年、
オリンピック前にケリをつけたいことがあるなら、絶妙な区切り。
いろいろな人が辞めたり、解散したり、引退したりするのは、
何か本能的に危機感を感じているからのような気もします。
安室奈美恵を機に、引退ブームが来るかもしれません。
惜しまれるうちが花、かもしれません -
島の日々
「ほうか、わざわざ東京から来たんか。それじゃったら、
わしが大悟のおやじを呼んじゃるけえ、港に着いたら、来るのを待ちょおれ」。
岡山県の笠岡港から北木島行き、
出航時間ギリギリに乗り込んだフェリーの船主の言葉に、
わたしたち夫婦は顔を見合わせました。
「どういうこと?」。お笑い通の方ならおわかりかもしれませんが、
冒頭に出てくる“大悟のおやじ”、
と言うのは漫才コンビ”千鳥”のコワモテの方、
瀬戸内海の島出身で、田舎者であることや幼い頃の貧乏エピソード、
エグい備後弁でのトークなどが売りの大悟、そのお父さんのことです。8月の終わり、夏休みをとって、
広島県にある実家に車で帰ったわたしたち夫婦は、ヒマを持て余して、
「そうだ、大悟の島に行こう」と思い立ちました。
そこから割と近い街に育ったわたしでも、
大悟の出身地ということを知るまでは名前を聞いたこともなかった、
人口1,000人にも満たない、コンビニの1軒さえないその島へ、
夏休みのほんの気まぐれで訪ね、
まあ、ぐるっと1周ぐらいして帰ってこようというつもりでした。しかし45分ぐらいの船旅を終え、北木島の小さな港に着くと、
そこにはフェリーの船主の言葉通りに、真っ白なミニバンに乗った
大悟のお父さんが待っていました。最近の千鳥の人気のせいで、
テレビでも見かけることのある、あのお父さんです。
「よう来たのう。へえじゃあ、わしの車の後ろから着いてきてくれえ。
家まで案内するけえ」。
わたしたち夫婦はまたしても顔を見合わせました。
「どういうこと?」。念のため、断っておきますが、
わたしたちはフェリーの船主とも、大悟のお父さんともその日が初対面です。
しかしだんだん事情が飲み込めてきたので、
このあまりにもおもしろい流れには素直に乗っかるのが正しい、と判断して、
白いミニバンの後ろに着いていくことにしました。
小さな島を知り尽くしたお父さんの運転は結構荒っぽく、
着いていくのがやっと。
途中には大悟が出た小学校や、島で唯一の食堂などがあり、
車をとめては説明をしてくれました。そして予想外の目的地となった、大悟の実家に到着。
「わしは車をとめてくるけー、先に家に入っとってくれー。母ちゃんがおるけーのう」との言葉通りに、ご自宅に上がると、そこには大悟のお母さんがいて、
居間に通され、名前も名乗っていないわたしたちに、
冷たいお茶やお菓子出してくれ、もてなしてくれたのです。
ほどなくしてもどって来たお父さんからは、
お手製の大悟の記事の切り抜きや写真などのスクラップ集を見せられ、
お母さんとはまるで東京で働く後輩の仕事ぶりを報告するように、
「大悟さん(初めて大悟のことを“さん”付けで呼びました)も東京でも大人気じゃ。
お笑いライブのチケットも全然取れんのんよ」と、
盛り気味の広島弁で会話しました。
お父さんいわく、大悟が“すべらない話”などでする、
お父さんにまつわる昔の貧乏話などは
「ありゃーのう、大悟が大げさに言いよるけど、まあ大方ほんまのことじゃ」。わたしたち夫婦が北木島で過ごしたリアル“ウチくる!?”のような時間は、
あっと言う間に過ぎていきました。
島と本土を行き来する船は1時間に1本しかないので、
「もう1時の船が来るけー、はよ帰った方がええ」と
突然“ウチくる!?”の終了を告げられ、そそくさと車に乗り込みました。
観光するヒマもなく、本当に大悟の実家に取材に行っただけでした。別れ際にお母さんから「あんたらは運がよかったんよ。
うちらもいつも家におるわけじゃないけーねー。
わざわざ訪ねて来てくれても、会われん人もおるけーねー。
またこっちに来たら寄ってねー」と、
まるで親戚のように言われ、何ともあたたかい気持ちになりました。フェリーの船主さん、大悟のお父さん、お母さん、ありがとうございました。
想定外の旅だったので、
まったくの手ぶらで家にあがりこんですいませんでした。
今度は東京からのお土産を持ってうかがいます。今回の夏休みは、他にもさまざまな場所に行って、
もちろん楽しかったのですが、一番印象に残っているのは、
まったく予定になかった北木島でのエピソードです。
SNSにはアップできない一緒に撮った写真もあります。
興味のある方にはお見せします。
これがわたしの夏休みの土産話です。 -
フェスの日々
とある土曜日の夜、昼間に針治療に行った疲れか、
急に降り出した雨のせいか、何もやる気にならず、
ぐったりと横になって、Twitterを眺めていたら、
「コーネリアスを途中で捨てて、ホワイトステージのオザケンに向かい中」
とか「オザケン地蔵がどかない」、「ホワイト入場規制かかった」といった
ツイートがタイムラインに流れてきて、
ああ今日はFUJI ROCK FESTIVAL(以下フジロック)なのか、
そう言えば小沢健二が初出演するんだったなあ、ということをぼんやりと
思い出していました。コンサートや舞台は結構観に行く方ですが、
いわゆるフェス、というものに行ったことがありません。
わたしの中のフェス感は、
映画「モテキ」の長澤まさみのファッションに集約されています。
天候が変わりやすい野外フェスに参加するなら、
ポップな色の帽子やパーカー、ショートパンツ、スパッツ、
レインブーツを新調しなければ。長澤まさみなら、
首に巻いたタオルさえもおしゃれです。
わたしだったら野良仕事です。
入場するためには、チケットだけでなく、フェスの制服である、
そういったファッションを身につけていなければならないような気がします。
ハードルが高いです。体力が持つかも心配です。若い頃、10歳ぐらい年上の会社員と待ち合わせをしたことがあります。
平日に会うときはいつもネクタイをしめたスーツ姿だったのに、
休日の彼は普段着で待ち合せ場所に現れました。
普通のセーターにコットンパンツかなんかをはいていたような気がしますが、
それが何ともダサく見え、がっかりしたことを覚えています。
会社員の制服であるところのスーツが、彼を何割か増しに見せていたのです。
待ち合わせにもスーツで来てくれ、と心から思いました。
そしてまたその逆もあり、普段はカジュアルな格好ばかりの同僚が、
誰かの結婚式か何かでフォーマルなスーツに身を包んでいたりすると、
ちょっといいな、と思います。
ただのネクタイ萌えかもしれませんが。制服のある仕事に就いたことがないので、
学校の制服以外の制服を着たことがありません。
今のところ着る予定もありません。
しかし最近読んだ林真理子の「我らがパラダイス」という
老人介護をテーマにした小説に、
高級老人ホームで働く50代の主婦がそのホームで着用する制服にまつわる
エピソードが書かれていました。
“地下鉄の窓ガラスに映った自分の制服姿は、
20代の女性のそれとは違って、なんてくたびれて見えるのか”とかなんとか。
仮にわたしが職を探すことになって、
制服のある仕事に就かなければならなくなったら、
と何となく自分の身に置き換えてぞっとしました。
しかしそんなことを言っていられるのは、
これでもまだわたしが若く健康だからで、
いつかは小説に出てくるような老人ホームに入って、
お遊戯をしたり、童謡を歌ったりするのでしょうか。
そちらの方がよっぽどぞっとしますが。しかしわたしが老人ホームに入るような時代に歌う童謡は、
フジロックの小沢健二のステージの1曲目、
スチャダラパーを伴って歌ってい大いに盛り上がった
「今夜はブギーバック」かもしれません。
誰かがアップした、右手を上げて左右に揺れている観客の映像を見ていたら、
そんな気になりました。
ブギーバックが発売されたのが1994年、もう23年も前のことです。
たとえば23年後、生きていたら右手を揺らしながら、老人ホームでブギーバック、
それは何フェスかはわかりませんが、そちらの方がもっともっとぞっとします。 -
メンテナンスの日々
年越しそばを食べたのは、ついこの前のことだと思っていたのに、
もう冷やし中華の季節です。
毎年おいしい冷やし中華を求めて街をさまよっていますが、
これ、という一品にはそう出会うことがありません。
仕方がないので、市販の冷やし中華麺を買ってきて、自作したりもするのですが、
薄焼き卵を何枚も焼いて錦糸卵をつくって冷ましたり、
わざわざハムや胡瓜を買ってきて細かく刻んだり、
茹でた麺を冷水にさらしてしめたり、
といった細かい労力の割には、食べ終わるのはあっという間。
食事としての派手さにも欠けるので、
満足感よりも徒労感の方が勝ったりもします。
そんな理不尽な食べ物を愛してやまないのは、
なぜか自身の人生とも似ています。そうです、あっと言う間に7月に入り、2017年も折り返し。
多分わたし自身の人生は折り返しているはずなので、
あと何回、年越しそばを、冷やし中華を、食べられるのかと考えたら、
一食たりともおろそかにできないと思うのです。食事がガソリンだとしたら、美容院や整体に行くことはメンテナンス。
若い頃は、いわゆる、おしゃれやモテ、のために通っていた美容院が、
いつからか修理の様相を帯びています。
鬢のあたりにうっすらと伸びてきた白髪が気になり出したら、
早々にピットインしなければなりません。
年をとると、サーキットを走り続けるためにはそれなりの経費もかかります。
たとえ、それが周回遅れだったとしても。そんな時の流れに身をまかせているうちに、
テレサ・テンの亡くなった年もとっくに追い越し、
美容院の鏡の前に置かれる雑誌も変わりました。
ざっくり言うと、「anan」「non-no」の時代から、
「JJ」や「CanCam」になり、「25ans」や「ELLE JAPON」「SPUR」,
変化球として「オレンジページ」や「レタスクラブ」などもはさみ、
「VERY」「STORY」、そして「クロワッサン」へ、
この先は「家庭画報」や「婦人画報」へシフトしていくのでしょうか。
こうして並べて見ると、わたしたちの世代は女性誌とともに生きてきた世代。
大げさに言えばわたしたちの加齢とともに、
新しい雑誌が創刊されていったように思います。大学生の頃、「anan」の特集に触発されて刈り上げにしていたことは、
今となってはかなりの黒歴史ですが、黒歴史あってこその青春。
その時の写真は今も待ち受けにして、自分を戒めています。嘘ですが。
Instagram やYou Tubeからあっという間に流行りが生まれる今となっては、
信じられないかもしれませんが、
読者が雑誌の発売日を心待ちにし、
そこから流行や文化が生まれていた時代があったのです。かつてのオリーブ少女も、今やオリーブおばさん。
わたしたち世代が定年を迎える頃には、どんな女性誌が生まれるでしょうか。
その女性誌はどんな特集を組むでしょうか。
そもそも雑誌は生き残っているでしょうか。さて、今月もそろそろメンテナンスに行ってきます。
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豊島園の日々
先日、中高時代の同窓会がありました。
と言っても故郷に帰って参加するわけではなく、東京で開かれる会。
毎年1回、関東近郊在住の同窓生が集り、
参加者は多い時でも30人ぐらい、
今年はほんの10人ぐらいのこじんまりとした会でした。
わたし自身も参加したりしなかったり、適当な感じで、
旧交を温め合っています。そしてその同窓会に参加する2日前には、
とあるライブハウスで、
昔好きだったバンドが出るイベントに参加していました。
そのバンドのフロントマンであり、MCをしていたサエキけんぞうという人が
80年代の彼らにまつわる音楽シーンの話をしていた時に、
何かのエピソードに触発されて、バンド結成のきっかけや、
先輩ミュージシャンの話、仲間たちの話を次々と語り始めました。
「ひとつ記憶の扉が開くと、呼び水になっていろいろな事を思い出す」と
言いながら。同窓会に出たり、昔のバンドの音楽を聴いたり、
相変わらず過去を振り返ってばかりの毎日ですが、
今回「遊園地」というお題を与えられて、わたしにも開いた扉があります。大学1年の時、
文学部のわたしたちのクラスメイトは45人ぐらい。そのうち男子は6人。
東京に出て彼氏とかつくってキラキラ、ドキドキ、ワクワク、
そしてドロドロしたキャンパスライフを送ろうと思っていた、
女子校育ちだったわたしは結構がっかりしたことを覚えています。
最初のオリエンテーションの時、
出席番号順に座らされたわたしの後ろの席にいたA君は、
くっきりとした二重まぶたの目が印象的な、
齧歯類のようなかわいらしい男の子でした。
プリントを渡したり、授業の取り方の話をしたりするうちに、
何となく口をきくようになりました。
大学のクラスはもちろん高校の時とは違って、
すべての授業を共に受けるわけではありませんが、
1年の時の必修の英語の授業はみんな一緒で、顔を合わせているうちに
地方出身者で同じように下宿生活をしているMという女の子と仲良くなり、
その辺をきっかけに何人かの女友達ができました。
クラスの男女合わせて7、8人で飲みに行った時(その頃は今ほどうるさくなかったので、大学生1年生は飲酒してました。すいません)、
普段は口数の少ないA君は、アルコールのせいか饒舌になっていました。
福島出身の彼は、ひどく訛っていて、イントネーションから単語から、
何を言ってるのかよくわからないぐらいで、
一緒にいた他の男子がからかったりしていました。
彼が大人しく口数が少なかった理由はこの辺にあったのかもしれません。
半年後ぐらいには授業で見かけなくなり、しばらくしてから
大学を辞めたらしい、という噂を耳にしました。
事情はともかく、せっかく入った大学を辞めてしまう人もいるんだ、と
わたしは驚き、その行動はなぜかひどく大人じみたことのように思えました。
そのせいか彼のことは今でも忘れていません。
10代の終わりに、ほんの半年ぐらいすれ違っただけの人なのに。
西武池袋線の「豊島園」という駅に下宿していた彼は、
今頃どこでどうしているのでしょうか。
どういう別れ方をしても、
今ならずっとSNSでつながっていたりするのでしょうが。A君を見かけなくなってから、
わたしは同じクラスにいた別の男子と交際を始め、
念願だったキラキラ、ドキドキ、ワクワク、そしてドロドロした
キャンパスライフを送ることになり、豊島園に行ったり、
当時できたばかりの東京ディズニーランドに行ったりもするのですが、
その話はまたいつか。そう言えば、先日の同窓会であみだくじでハズれ、
来年の幹事をすることになってしまいました。
誰かよいお店を知りませんか。
「豊島園」に集るのもいいかもしれません。