駅の日々

11月の半ばに、東海道新幹線に乗車しました。2泊3日の関西への旅でした。

厳密に言うと、東京から新大阪までが東海道新幹線、新大阪から先が山陽新幹線です。

大学に入って上京してから数十年、

山陽新幹線に乗って広島の実家と東京駅を何十回も往復してきた身ですが、

ここ数年はめっきり乗車回数も減り、

ひとりで東京駅の新幹線ホームにたどり着いたのはひさしぶりです。

大げさなようですが、それはたどり着いた、という表現がふさわしく、

何泊するの?というぐらい荷物を詰め込んだキャリーバッグを

ごろごろと転がすことに不慣れなうえ、

階段を上がるのもしんどいのでエスカレーターやエレベーター、

スロープを探してうろうろ。

普段なら目をつぶったって歩けるターミナルの新宿駅を

キャリーバッグを転がして歩く不自由さ、

「お前ら邪魔なんだよ」と心の中で悪態をつきながら、

そしてきっと「おばちゃん邪魔なんだよ」と思われながら、乗り換えをこなし、

もう旅に出る前からぐったりでした。

そして、さて予定ののぞみに乗車、というその時に

キャリーバッグの伸縮ハンドルのところにひっかけていた

手持ちのトートバッグが傾いて、列車とホームの隙間に定期入れと化粧ポーチを

落としてしまいました。

定期入れには買ったばかりの3ヵ月定期券や保険証など大事なアイテム盛りだくさん。

化粧ポーチには化粧品の他に、旅の間に飲む常備薬も。

とりあえず乗り込んでから、

パニック状態で車掌室まで行って事情を話すと、車掌さんも慣れたもので

「了解しました。東京駅に確認を取ってみますが、新幹線は3分置きに発車するので、

すぐに見つかるかどうかわかりません」とのこと。

当日は早起きだったので、新大阪までゆっくり寝ていこう、と思っていたのに、

次の列車につぶされたらどうしよう、

レールの間の変な隙間に入って取れなくなってたらどうしよう、

と気が気ではありません。

しかし結局、きちんと連絡を取ってくれた車掌さんが、

名古屋に着く前あたりで「東京駅のJR東海の遺失物センターで預かっています。

これこれこういう手続きを取って受け取りに行ってください」、とわざわざ座席まで

報告に来てくれました。

ありがとうございました、と何度もの御礼を言い終わったあとに、

やっとわたしの久しぶりの一人旅がスタートしました。もう京都に着く寸前でした。

 

わたしにとって東京駅は特別な駅です。

1964年に開通した東海道新幹線は、東京と新大阪をつなぐ夢の超特急でした。

子どもの頃、母と妹と3人で大きなボストンバッグをいくつも抱えて

広島から在来線に乗ってはるばる新大阪まで行き、

そこから上りの新幹線に乗って延々と東京にある母の実家まで旅をしました。

新幹線には食堂車があり、自由席にも座れないほど混んでいるときは、

母はそこでビールを飲み、わたしたち姉妹は

普段はあまり食べられないハンバーグなんか食べていたように記憶しています。

新大阪からの新幹線だけでも4時間にも及ぶ長旅の末、東京駅に着くと、

ホームには母の弟であるおじさんやいとこたちが迎えに来てくれていて、

これから楽しいことが始まるという予感に満ちた、特別な場所でした。

 

長じて大学に入って上京し、わたしの住む場所が東京になると、

今度は東京駅から実家に帰る、下りの新幹線に乗る日々です。

学生の頃は親もうるさく、最低でも年に1度は乗っていた新幹線にも、

卒業して社会人になった頃から、

一人前に仕事が忙しいとか何とか理由をつけて乗らなくなり、

実家に帰る頻度も少なくなりました。

そして結婚した30代の頃には主人と二人で帰るようになり、

40代になって義母と同居するようになると、

また年に一度ぐらいはひとりで帰るようになりました。

多分その頃のわたしの心境は、

どんなに時間がかかっても荷物が多くても子どもたちが足手まといでも

ただ東京の実家に帰りたいという、1970年当時の母の気持ちと似ていたのかもしれません。

今、思えば。

 

実家のある新幹線の駅に着くと、ふたつのゲートを通って、改札の外に出ます。

一つ目のゲートを通ったぐらいで、

改札の向こうに迎えに来てくれている父と母の姿が見えます。

新幹線で都会から帰ってくる人を待つたくさんの出迎えの人たちの中に、

すぐに父や母の姿を見つけては、照れくさいようなめんどくさいような気持ちになって、

いつも頼まれて東京駅で買う父の好物の崎陽軒のシウマイをぶっきらぼうに渡して、

駅の裏に停めている軽自動車に乗り込んだものでした。

そして母が亡くなり、父がひとりで迎えにくるようになり、

何年か前には父も亡くなって、

もう新幹線の駅にわたしを迎えに来てくれる人はいません。

わたしの手には崎陽軒のシウマイの袋もありません。

今でもたまに一つ目のゲートを通ると、父や母の姿を探して少し泣きたくなります。

ふたりとも亡くなった後に、実家で台所を整理していたら、

引き出しの中から崎陽軒のシウマイに付いている陶製のしょうゆ入れが

何十、いや何百も出てきて、一緒に片づけをしていた妹や甥と泣き笑いになったことも

忘れられません。そんなもの取っておいても、何の使いみちもないのに。

 

今でも、普段の生活で東京駅を通ると猛烈にノスタルジーがかきたてられ、

新幹線に乗って広島に帰りたくなります。

今回の久々のひとり旅で、わたしがごろごろと引っ張っていたのは

父が遺したキャリーバッグです。ネームタグには今でも父の名前が書いてあります。

関西からの旅の帰りには、551の豚まんを買って帰りました。

新幹線には崎陽軒や551がよく似合います。

 

少し早いですが、2019年もお世話になりました。

よいお年をお迎えください。

実家で迎えてくれる人があるなら、帰省したほうがいいと思います。