• オフライン

    この間、マーケティングのカンファレンスに行ったのですが、

    あるセッションで、

    モデレーター(司会者みたいな役割)の人が見せた資料に、

    どこかの店舗の写真が載っていて、「オフライン」と書かれていました。

     

    オフライン、みなさんはどういうイメージがありますか?

     

    La la la la la la la la la la…

    それはオフコース。

     

    インターネットが当たり前になってから、

    オンラインショップとの対になる言葉として、

    「オフライン」が使われるようになりました。

     

    オンに対するオフ。

    この言葉が200%拡大でわたしの目に飛び込んできて、

    そうか、オフか…としみじみ思いました。

     

    「リアル店舗」という言葉も、

    インターネット上で展開される店舗が

    一般的になってから言われ始めた言葉です。

    だって昔はリアルもなにも、

    店舗、と言ったら、現にその地面の上に立っている店舗しかなかったのですから。

     

    インターネットは、わたしたちの生活も思考も、

    そして言葉も変えました。

     

    「オンライン」がベースになった今では、

    リアル店舗はオフラインの産物であり、

    オンラインとオフラインをどうつなげていくか、が

    店舗経営の基本になっていくのです。

    オンラインを完全に無視することはもはやできません。

    オフラインでいく、という態度も、

    オンラインは方法としてあるけれどもあえてオフラインでいく、

    という決定の仕方になるでしょう。

     

    今でこそ、

    オフラインよりオンラインのほうが「後に出てきた」ことを憶えていられます。

    でも、10年20年経った時も、同じように憶えていられるか、

    あまり自信がありません。

    便利になると、昔の不便さをすっかり忘れてしまうものです。

     

    いま生きているこのオフラインの世界も、

    いずれ過去になり、遺物となり、

    未来のわたしオンラインに懐かしがられるかもしれません。

     

    今年最後のコピペでした。

    わたしも、みなさまも、良い年カモーンヌできますように。

  • #やばい #すごい #現代アート

    最近、美術展に行くと、セルフィーする姿をよく見かけます。

     

    六本木の森美術館に『塩田千春展』を観に行ったときのこと。

    場所柄もあり、外国人観光客がたくさんいました。

    展覧会は、写真可の展示スペースがたくさんあり、

    外国人観光客も、もちろん日本人も、思い思い写真を撮っていたのですが、

    わたしがある展示スペースで、

    真っ黒に燃やされたピアノのオブジェを見ていると、

    スレンダーな中国人女性が、そのピアノの後ろで立ったかと思うと、

    髪をかき上げて、めちゃくちゃポーズを「キメて」いました。

    イメージ的には、セレブがレッドカーペットでポーズを取る、ああいう感じです。

    それを高価そうなカメラでおさえる連れの中年男性。

    年の離れた夫婦か、もしくは、

    なんらかの利害関係のある男女(なんだそれは)だと思うのですが、

    中国人女性は、もしかしたらモデルさんだったのかもしれません。

     

    鑑賞する人にとって、アートは、

    鑑賞するものから、「私を映えさせるもの」へ変わったのです。

    拡散のためのツール。

    いいねのための背景。

    #ART #ピアノ #塩田千春 #真っ黒 #燃えてる

     

    わたしも、塩田千春の圧倒的な美術作品を眺めながら、

    それをスマホにおさめて、SNSにアップしました。

     

    また、べつの展示スペースでは、

    米津玄師似というか、RADWIMPS好きそうというか、

    川谷絵音っぽいというかなんというか、まぁざっくり「今っぽい」男の子が、

    張り巡らされた赤い糸のなかにうまい具合に立ち、

    横を向いて顔を少し上向きにしてポーズを取り、

    彼女らしき女性に写真を撮ってもらっていました。

    #ART #赤い #糸 #横顔 #米津玄師 #RADWIMPS

     

    「〇〇に行ってきた」ということをだれかに話すとき、

    写真がないと、説明が不十分な気がする。

    このうまく説明できないときに感じる不安のようなものは、

    いったい何なのでしょう。

     

    面と向かって話をするとき、

    会話は、空気を伝わって届く音のつらなりです。

    そこに視覚的な文字や写真は自動的には表示されません。

    発信する側のわたしが「スレンダーな中国人女性」といったとき、

    受信する側のあなたの「スレンダーな中国人女性」は、

    いったいどんな女性像でしょうか?

    像を結べない、イメージがない、という人もいるのではないかと思います。

     

    わたしたちは、ツイートの枠や、

    写真を追加することや絵文字が日常的すぎて、

    それなしで「伝える」ことが難しくなってしまったのかもしれません。

     

    何世紀も前、写真がこの世界に登場したとき、

    被写体となる人は「魂がとられる」と本気で心配したそうです。

    自分の似姿がそのまま別の機械をとおして現れることは、

    ここにいる自分がいなくなる・減ってしまうように思ったのでしょう。

     

    でも、それを無知だと笑うことは、わたしにはできないのです。

    自分の思いや自分の姿といったものは拡散できますが、

    多くの目に晒されることで、むしろ、

    自分というものが拡大するよりもバラバラになり、

    充実するよりも中心が空っぽになっていくような感覚は、

    過去の人々が感じた「魂がとられる」という恐れと、

    どこかつながっていると思うのです。

     

    すっかり秋ですね。

    今月は、会社からもほど近い三菱一号館美術館へ行こうと思います。

  • 「sorry」を日本語で訳すと?

    この間、ロンドンに行ったんです。

     

    中学生の頃、母と姉とツアーで行ったことがあるのですが、

    正直記憶はおぼろげもおぼろげで…初めて訪れる都市に思えました。

     

    ロンドンは思っていたよりもずっと人がせわしなく、

    特に通勤時間帯は、地下鉄も東京のように混み合い行列ができます。

    TUBEと呼ばれるロンドンの地下鉄は、

    プラットフォームがその名の通りチューブの形状のトンネルで、

    電車もかまぼこみたいな形でした。車内もね、天井が丸いんです。

    日本の地下鉄と比べると、とても小さいです。銀座線より小さいのではないでしょうか。

    みんな体が大きくて足も長いから、

    あっちの座席とこっち座席の間に人が立つことは、けっこう無理。

    だから、みんなドアの近くに立ちます。

    日本の地下鉄の乗客は、ほぼ日本人のように見えますが、

    ロンドンの地下鉄は欧米、南米、中東、アジア、そしてインド…と実に多種多様。

    なかでも、背の大きい男性や女性はみんな背中を丸めて乗っていました。

     

    大学まで「英語」を勉強してきたわりに、いざとなるとてんで話せない。

    渡英前に「3語で伝わる」というふれこみの本を買ったりして、意欲だけはあったのですが…

    自分の英語のできなさという現実に、また直面しました。

    じゃあどんな英語なら話せたのか?

    そうです、「sorry」と「thank you」です。

    ロンドンが観光地であることも関係していると思うのですが、

    「sorry」と「thank you」には必ず「no problem」などが返ってきます。

     

    たとえば、

    ロンドンの人たちは、自分の動線上に人がいたら「sorry」と声をかけます。

    道を開けてほしいからですね。

    もし先に気づいたら、道を空けます。

    空けてもらったら「thank you」そして「no problem」など。

    この流れが自然すぎるほど自然でした。

    (返しの言葉はたくさんあるので気になった方はwebで探してみてください)

     

    日本では、降りたい人がいてもなぜか石になったようにどかなかったり、

    どかない人を無理に押しのけてケンカになったり、

    なんだか物騒な車内トラブルが絶えませんよね。

     

    わたし、ロンドンで過ごしてみて、これはなぜだろうと考えたんです。

    まぁ主な原因としては、過密すぎる朝夕の通勤ラッシュでしょう。

    でも、もしかしたら、英語と日本語の心理的使いやすさのちがいも、あるんじゃないか。

    そんな考えが浮かびました。

    日本語の「すみません」「ありがとう」「いえいえ」が、

    ちょっとした会話のなかで、使いにくいんじゃないかと思うのです。

     

    「すみません」には、謝罪の意味合いがありますよね。

    もちろんsorryにもそれはあるわけですが、

    sorryはもっとカジュアルなことばに思えます。

    それが丁寧語なのか普通なのかは文脈で決まります。

    でも、「すみません」は字面からして明らかに丁寧語ですよね。

    カジュアルなすみませんは、「ごめんね」です。

    ごめんねと比べると「すみません」は、丁寧でさらに謝罪っぽいわけです。

     

    つまり、ごめんね=sorry、すみません=sorry。

    この非対称性が、日本人に「すみません」を使わなくさせている、という仮説。

     

    なんで降りるときにいちいち謝らなきゃいけなんだ、当たり前だろ、察しろ。

    みたいに思っている人って、実は多いんじゃないでしょうか。

     

    もっとふつうに、フランクに「すみません」が言えたら、

    いざこざが減る気がするんですけどねぇ。

    日本でちょっと人とぶつかってしまったとき、

    「あ、ごめんね」だと、いや友だちか?ってなるじゃないですか。

    「ごめんなさい」「すみません」のほうが、知らない人にはふさわしい。

    でも、なんとな〜くそれも言わない人が増えているような。

    「ごめんねごめんね〜」と言えればよいですが、ちょっとなれなれしい感じもあります。

    だとすると、やっぱり「sorry」がいちばん使いやすいんですよね。

    英語って便利。すごい。そりゃ世界の公用語になるわけだよ。

     

    ロンドンやニューヨークといったグローバルな大都市で

    面と向かってお礼を言ったとき、謝ったとき、ちゃんと返答があるのは、

    多国籍の人々が多いゆえに最大公約数としてのマナーをみんなが守って、

    いらぬトラブルを避けようという心理が働くからかもしれません。

     

    日本は最近でこそ多国籍の人々が増えましたが、

    「以心伝心ローカルルール」が根強すぎるように思います。

    言葉に出して、言葉を通して、コミニュケーションをとるっていうのが、

    日本人はほんとうにヘタクソというか…

    あ、他人事みたいに言ってますけど!

    知らない人とでも、もっとニュートラルに会話できるように、

    やっぱり「sorry」の日本語訳をあたらしく考えだすべきかもしれません。

    そして、そのあたらしい日本語訳で、

    今日電車で隣になった知らないあの人と会話をはじめるのです。

     

    「ソーリー」

     

    ね、使いやすい。

    今回はせっかくなので、TUBEの写真を。

  • こどもの敵はどこから?

    ゴルフにはあまり興味がないのですが、

    つい全英オープンはWOWOWで見てしまいました。

    なにかと「笑顔」が取り上げられる彼女ですが、

    それよりなにより、世界大会で優勝する実力はすさまじいものだと思います。

    あるスポーツ記者が大坂選手が全米オープンで優勝したとき、

    ラジオでこんなことを言っていました。

     

    「大坂選手を見ている子供達は、世界一になれるんだ、というのがスタンダードになる。スポーツ界にものすごい変化をもたらすことですよ。」

     

    未来を変えつづけるのは、こどもたちなのかなと思います。

     

    Netflixオリジナルドラマとして空前の大ヒットとなっている

    あるドラマシリーズも、「こどもたちの物語」です。

     

    わたしはホラー映画の類いが苦手で、映画館でも家でもほとんど観ません。

    サスペンス映画も、あまり手を出したことがないのです。

    『ジュラシック・パーク』を見るのにもちょっと気合いがいるくらいです。

    『エイリアン』っぽいのかな、と漠然とした印象で見始めた、くだんのドラマ。

     

    1984年、アメリカ中西部のインディアナ州、

    ホーキンスという町で起きる

    ある異様なできごとが描かれているフィクションですが、

    とにかく、とにかく面白い!

    さまざまなアメリカの映画やドラマ、音楽へのオマージュがちりばめられ、

    アメリカのカルチャーが好きな人にはたまらない作品です。

    各話40分〜1時間程度で1シーズン8話ほど。

    ベースはホラー映画なのですが、

    80年代の素晴らしい不自由さ(インターネット環境がないなど)と、

    それゆえの牧歌的なチャーミングさが描かれ、なんだかうらやましく思えます。

    登場人物もみんな魅力的で、最新シーズンを見終えた夜、

    ベッドのなかで彼ら(登場人物たち)のことを想って、わたしはちょっと泣きました。

    次のシーズンで最後だという噂もあり、

    焦がれるような気持ちで次のシーズンを待っているところです。

     

    人間にとっての「敵」と想定されるのは、

    幽霊やゾンビ、怪物や化け物、エイリアン、地球外生命体といったものがありますよね。

    そうした存在が、あるとき突然、

    ふだん暮らしている世界の裂け目から、はい出してくる。

    このドラマのなかでは「Upside Down(あちら側)」と呼ばれますが、

    人間がうかがいしれない世界と、そこに巣食う未知のクリーチャーの姿を

    これほど魅力的なイマジネーションをもって描いたドラマは、

    なかなかないのではと思います。

     

    こどもの頃、暗闇がこわかったです。

    視線が低かったからでしょうか。

    大人になった今より、暗闇を、広く、大きく感じていた気がします。

    それでも不思議と、無力感はあまりなかったように記憶していますが、

    みなさんはどうでしたか?

    ドラマのなかでも、少年少女たちが現実に現れた怪物を

    パチンコのおもちゃで倒そうとするシーンがあります。

    到底そんなもので倒せるわけはないのに、

    目の前で対峙した瞬間には、ゲームのなかでしていたような攻撃しかできない。

    一方で、特殊な力をもつ少女も出てきます。

    彼女が物語の主人公と言っても過言ではありませんが…

    おっと、これ以上は見てのお楽しみということで。

     

    少年少女ゆえの限界や敗北感はリアルでありながら、

    彼らの友情、理想や飛躍といった、ピュアでどこか大人びた心はとてもまぶしいです。

    自分が味わったはずの、でもどこかで忘れてしまった気持ちや懐かしい記憶を、

    それぞれのこどもたちによって、べつの形でもう一度体験できるドラマ。

    わたしは、彼らが「大人ではないこと」が、

    こんなにもヒットしている要因なのではないかと思いました。

     

    2010年代のいまは、ネットで検索してしまうと

    検索ワードの予測機能でネタバレにあたってしまうので、

    Netflix直行をおすすめします。

    ぜひ。一緒にストレンジャーシングス・ロスになりましょう。

  • 「エプロン談義」

    そろそろ、梅雨明けでしょうか。

    それはそうと、先月、こんなニュース記事が目に飛び込んできました。

     

    「有害な」男女のステレオタイプ描く広告、イギリスで禁止

     

    内容としては、

     

    イギリスの広告基準協議会(ASA)はこのほど、「深刻もしくは広範な被害」につながる可能性のある「性別にもとづく有害なステレオタイプ(世間的固定概念)」を使った広告を禁止した。一部のステレオタイプに基づく表現が、「人の可能性を狭める」一端を担いかねないとしている。

    ASAの決定に伴い、イギリス国内の広告では今後、男性がくつろぐ間に女性が掃除していたり、男性がおむつ替えに失敗したりするなどのシナリオは使えなくなる。

     

    というものでした。

    続きます。

     

    このほか、新規制で「有害」と認定される可能性のある描写には以下のようなものがある。

    • 男性が赤ちゃんのおむつ替えに失敗したり、女性が駐車に失敗するなど、性別が原因で特定のタスクに失敗する描写

    • 出産したばかりの母親に、心の健康よりも、外見をきれいに整えたり家事をきちんとする方が大事だと示唆する描写

    • 従来のステレオタイプで女性の役割とされてきた活動に従事している男性を軽んじる描写

     

    わたしは、イギリスでのこうした動きに対して、いいなと思いました。

    広告は、商品を広告します。

    同時に、その商品が「だれの手に届いてほしいか」も表現している。

    表現した以上、その表現を積極的・主体的に選択していると見なされます。

    この広告は、「有害」な世間的ステレオタイプを助長し固定するものではないか?

    わたしは街でさまざまな広告を目にするたびに、自分に問いかけることが多くなりました。

    そういう世間的ステレオタイプが嫌だから。

    嫌なんです、肌感覚的に。

    古くて、ダサいから。

     

    例えば。

    わたしは、ずっと「エプロン」が引っかかっているんです。

    家事(食事の買い出し、料理の支度、洗濯、洗い物など)をするときに、

    自分自身エプロンを着たことはこれまで1回あったかどうかなのですが、

    みなさんはありますか?エプロン。

    広告表現において、エプロンは「家事」の象徴ですよね。

    わたしもわかるんです、家事をイメージしてるんだな、と。

    でも、多くの家庭で、家事をする人はエプロン着ないんじゃないでしょうか。

     

    自分の母のことを考えてみると、共働きで、エプロンは着ていませんでした。

    そんな背中を見ていたからでしょうか。

    洋服の前側を汚さないために着るエプロンはずっと遠い存在でした。

    父ももちろん、エプロンなんて着ていませんでした。

     

    でも、テレビや新聞、雑誌、インターネット、様々な表現があふれる場で

    「エプロン」は家事をしている人の象徴で使われています。

    もちろん、広告は「伝わる速さ」が重要なので、

    「エプロン=家事」が今も瞬間的に伝わりやすいのでしょう。

     

    エプロン、着ないけど。

    ここなんですよね、わたしがなんとなく引っかかるのは。

    朝起きてご飯もそこそこに家を出て、

    仕事して、夜遅く家に帰って、エプロン着たいかな。

    わたしは外で着ていたものぜんぶ脱ぎ捨てはしたいですが、

    エプロンをわざわざその上から着たいとは思わないです。

    ヒモむすぶのなんかも、面倒だし。

    家では、一番楽なかっこうでいたいし。

    でも、シロさんはじめ、エプロンして家事をする人ももちろんいますよね。

    部屋着が汚れるのが嫌だから、エプロンを着るとテンション上がるから。

    「心の余裕」「きちんとしている感じ」があるから。

    うん、そういう人もいます。それはそれでよくて。

    エプロンを悪者にしてエプロン反対!ってしたいわけじゃないんです。

    でも、じゃあ、家事にまつわるAという商品の広告においては、

    エプロン着る女性、エプロン着る男性、エプロンを着ない女性、エプロンを着ない男性、

    エプロンを着る犬、エプロンを着るネコ、エプロンを着る◯◯……。

    この中のどのイメージをどういう理由で選択して、なにをメッセージとして表現するのか。

    そういうことをみんなで共有して考えた上で、

    「今回はエプロンありの女性でいきましょう」ってなってほしくないですか?

    わたしは、なってほしいんですよね。

     

    広告が「表現」するとき、

    そこにステレオタイプがあるのか、ないのか、

    あるとしたらそれは今、どんな捉えられ方をしているのか、

    そもそも自分はどう感じるのか、

    クライアントのイメージはどこをめざしているのか、

    そしてその目標はいまの時代にどう反応されるのか。

    いちいち立ち止まって、「表現のその先」を考えることが大事だと思います。

     

    わたしは、広告が、役割や世界観を固定化するものではなく、

    可能性や自由を広げるものであってほしいと思うようになりました。

    自分の考えや言葉が、だれかの可能性や自由を広げるものであったなら、

    それ以上幸せなことはない気がします。

     

    これまで普通だと思われていたことは、

    もう普通じゃないかもしれなくて、

    その移り変わりのスピードはどんどん早くなっている。

    アプリのアップデートさえ日常的なのに、

    人間が初期設定のままでうまくいくのでしょうか。

    アップデートするかしないかは自由だとしても、

    最新の状態がどんな状態かくらいは、気にしたほうがいいとわたしは思うのです。

    みなさんは、どうですか?


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