• 別れの日々

    当「コピペ」、2010年10月1日に1回目がスタートしてから、

    最後となる今回で103回目の更新です。

    毎月1回更新するというルーティーンをきちんと守っていれば、

    105回目の更新で終了するはずでしたが、事情があり2回休みました。

    それは母が亡くなった時と、父が亡くなった時でした。

    両親との別れの時でした。

     

    そして2020年3月、まさかコロナウイルスとともに最終更新を迎えるとは

    予想もしませんでした。

    オリンピックイヤーである今年、そのウイルスはまずアジア圏を襲い、

    日本では普段なら卒業や就職、進学を控えて高揚した気分である季節なのに、

    学校は一斉休校を余儀なくされ、街角のドラッグストアからマスクと

    ティッシュやトイレットペーパーが消えました。

    濃厚接触、という耳慣れない言葉のおかげで、多くの人が集まるさまざまな

    イベントが中止や延期になり、3月30日の時点で、わたしの手元には

    予定通りには開催されなかった4枚のチケットがあります。

    ウイルスが未知のものである限り、その自粛ムードにも終わりは見えず、

    これからももぎられないチケットは増えていくかもしれません。

    オリンピックも延期になりました。

    これが文化やスポーツとの別れでないことを願います。

     

    とはいえ、一見するとアジア圏でのコロナ禍は

    ピークを過ぎたかのようにも見え、約2週間遅れて、

    欧米諸国での外出禁止令などが発令されました。

    不謹慎なようですが、

    ウイルスというのはきちんと均等に世界にひろがっていくのだな、

    これもグローバリズムか、と思ったりもします。

    もし仮に今年のオリンピックが日本以外の国で開催予定だったとしても、

    その開催を危ぶまれる事態だったことでしょう。

    そしてそれまでヨーロッパには1度も行ったことがなく、

    十数年前に会社の研修旅行で初めてパリに行ってから、

    その美しさに魅せられ、その後何度か足を運んだ大好きな国フランスの

    名だたる観光名所や街角のカフェから人が消えているのを見るにつけ、

    今度わたしが彼の地を訪れるのはいつになるのだろうかと、

    考えずにはいられません。

    これがまた、旅との別れでないことを祈ります。

     

    もちろんコロナウイルスとは関係なく、

    さまざまな出会いと別れのある春ですが、

    「コピペ」の最終更新と時を同じくして、

    わたしたちの同僚もひとり会社を去っていくことになりました。

    十年以上の付き合いになる彼とは、同じコピーライターとして

    多くの仕事と少しのプライベートを通じて、さまざまな会話をし、

    分かち合えることやそうでないこと、

    そして助けられたり助けたり、頼りにすることもたくさんありました。

    こんな世の中が自粛ムードの時にいなくなってしまうのも、

    なんとなく彼らしい、そんな気もしますが、

    感謝しているし、その未来に幸あれ、と心から願います。

    そしてこれは別れではない、のでしょう。

     

    いろいろあるけど、季節はめぐるし、桜も咲いています。

    「コロナの時は大変だったねー」と早く過去形にしたいと思います。

    長い間ご精読ありがとうございました。

    また、何かのかたちでお会いしましょう。

     

    と、ここまで書いたところで、志村けんとの別れの知らせが入りました。

    哀ーン。

    さようなら。

  • 10年の日々

    特に話題になることもなく、ひっそりと始まった当「コピペ」ですが、

    特に話題になることもないまま、今回を入れてあと残すところ2回、

    2020年4月をもって現在の形式では終了することになりました。

     

    あと2回、ということで、過去を振り返ってみたら

    第1回がスタートしたのが、2010年10月。

    偶然ですが足かけ10年を迎えていました。

    ざっくりこの10年を遡ってみると

    2011年 東日本大震災

    2012年 東京スカイツリー完成

    2013年 「あまちゃん」ブーム/2020東京オリンピック招致決定

    2014年 「笑っていいとも!」終了

    2015年 箱根駅伝で青山学院大学初優勝

    2016年 アドブレーン 内幸町ダイビルに移転/SMAP解散

    2017年 当時の天皇陛下が生前退位されることが決定

    2018年 安室奈美恵引退

    2019年 元号が令和に

    2020年 東京オリンピック開催(予定)

    異論もさまざまあるでしょうが、

    その年の代表的な出来事をあげると、個人的にはこんな感じの10年でした。

    そういう事例を選んだからかもしれませんが、終わりや始まりがあり、

    そして「終わりの始まり」を予感させられる10年だったという気もしています。

     

    そして当たり前ですが、わたしも10歳年を取り、

    家族をふたり見送り、慢性的に首や腰が痛くなり、視力が衰え、

    体力や根気や集中力が失われ、シワや白髪や心労を得ました。

    10年前はまだガラケーを持っていたのに、

    あっと言う間にスマホに変わり、インターネットの発達はすさまじく、

    あらゆる文化や風俗や経済を飲み込んで、

    世界三大発明と言われる、火薬・羅針盤・活版印刷術をも凌駕。

    有史以来の激動の日々を生きていると実感します、大げさでなく。

    自分が持っていたものさしはあっという間に尺度が変わり、

    日々アップデートすることを余儀なくされる忙しない日々が続いています。

     

    震災からオリンピック招致決定、

    そして今年2020年を迎えオリンピックイヤーがやってきましたが、

    いま日本中、世界中が新型コロナウイルス騒動に揺れ、

    収束の兆しが見えないなか、

    本当に東京オリンピックは開催されるのでしょうか。

    不謹慎なようですが、

    もしオリンピックが中止になるようなことがあるとすれば、

    その原因は自然災害だろうと思っていました。

    しかし、まさかの新型ウイルスに因るかもしれないとは想定外です。

    品不足という側面もあるのでしょうが、

    電車のなかは思ったよりマスクの人が多くはありません。

    いつ罹患してもおかしくない、と肝に銘じています。

     

    思えば2010年代は、ほぼ毎月1回ずつ書いていたことになります。

    評論家の吉本隆明(ちなみに作家である吉本ばななのお父さん)が

    「どんなことでも、10年間毎日続ければ一丁前になれる」と

    いう言葉をのこしています。

    毎日書いていたわけではないので一丁前にはなれそうもありませんが、

    長いようで短く、短いようで長かった日々でした。

    これから先の10年のことは、ちょっと想像できませんけど。ぴえん。

  • ドラクエの日々

    1989年の暮れ、というよりも平成元年の暮れ、と言ったほうが、

    ある種のイメージを伴って語ることができるのですが、

    わたしは有楽町線で池袋駅から3つ目の小竹向原という駅の

    6畳と3畳ぐらいのキッチンと申し訳程度のバストイレのついた

    家賃4万5千円の小さなアパートで

    ファミコンのゲームばかりしていました。

    今の言葉ならネトゲ廃人とでも言うのかもしれませんが、

    もちろん当時はインターネットなど影も形もなく、

    オンライン上で見知らぬ人とやり取りをせずとも、

    ただただひとりで朝から晩まで

    「ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ」を攻略していました。

    大学を卒業していたもののきちんと就職することもなく、

    知り合いのツテで出版社や編集プロダクションでアルバイトをしたりしながら、

    何年かふらふらとその日暮らしのように生きていて、

    それでも若さゆえか、将来に不安もなく、それどころか何の根拠もない

    自信のようなものを持て余しているぐらいでした。

    1日中ドラクエⅢをやっていた頃は、まったく仕事もなく、

    お金もなく、もちろん貯金もなく、

    当時いっしょに部屋にいた人がきちんと働いていたので、

    その収入でなんとか食べさせてもらっているという体たらくでした。

     

    レベル上げにも飽きると、「ドラクエⅢ」で初めて出てきた

    勇者たちを乗せて鳥のように空を飛んで移動できる生き物

    “ラーミア”のテーマソングを、

    当時使っていたパイオニア製の白い留守番電話に入れる

    メッセージのBGMにしようと、

    何度もラーミアに乗ってはテレビのスピーカーからその音を流しながら、

    設定を試みたものです。

    “ただいま外出しております。

    ご用のある方は30秒以内にメッセージを吹き込んでください。ピーッ”

    という自分の声の後ろに流れる、もの悲しいラーミアのテーマ。

    わたしはこの曲が好きでした。

    当時まだ生まれていない20代の方は

    何のことやらさっぱりわからないかもしれませんが、

    そういう道具があり、そういう作業が必要だったのです。

    そういう時代だったのです。

    そしてとにかく、わたしは恐ろしくヒマを持て余していたのです。

    平成元年の暮れのことです。

     

    当時いっしょに部屋にいてきちんと働いていた人が、

    朝、仕事に出かける時に、

    わたしはファミコンのコントローラーを持って

    テレビ画面を見つめ背中を向けたまま送り出していました。

    そしてその人が仕事を終えて夜遅く帰ってきた時にも、

    まったく同じ姿勢でいる、という状態が何日も続いていた時に、

    それまであまり面倒なことを言わなかった人が

    「働いたほうがいいいんじゃないの」と、わたしの、

    その頃はまだ薄っぺらかった背中に向かって、つぶやきました。

     

    そうして深い沼の底にいたような日々から目覚めたわたしは、

    新聞の求人情報を探して、手書きの履歴書を何枚か書き、

    面接用のスーツを買い、都内を走るさまざまな鉄道に乗り、

    いくつかの面接や、数度の手続き終えて、

    年が明けた平成2年1月8日から、

    銀座1丁目にある会社でコピーライターとして働き始めました。

    就職活動中の面接や採用の結果を知らせてくるメッセージは、

    ラーミアの留守番電話が受け取ってくれていました。

    平成2年と言えばちょうど1990年、

    そう、この2020年1月8日で勤続30年が経ったのです。

     

    世の中は令和になって、あれから本当に長い月日が経っているのに、

    まだラーミアに乗ったばかりで、見知らぬ大陸を見下ろしながら

    行ったことのない塔やお城をながめているだけのような気もします。

    ちなみに1989年にいっしょに部屋にいた人はその後、夫になりました。

    わたしのRPGはどこまで続くのでしょうか。

    ルーラを唱えたら、いつか訪れた街に戻れるでしょうか。

  • 駅の日々

    11月の半ばに、東海道新幹線に乗車しました。2泊3日の関西への旅でした。

    厳密に言うと、東京から新大阪までが東海道新幹線、新大阪から先が山陽新幹線です。

    大学に入って上京してから数十年、

    山陽新幹線に乗って広島の実家と東京駅を何十回も往復してきた身ですが、

    ここ数年はめっきり乗車回数も減り、

    ひとりで東京駅の新幹線ホームにたどり着いたのはひさしぶりです。

    大げさなようですが、それはたどり着いた、という表現がふさわしく、

    何泊するの?というぐらい荷物を詰め込んだキャリーバッグを

    ごろごろと転がすことに不慣れなうえ、

    階段を上がるのもしんどいのでエスカレーターやエレベーター、

    スロープを探してうろうろ。

    普段なら目をつぶったって歩けるターミナルの新宿駅を

    キャリーバッグを転がして歩く不自由さ、

    「お前ら邪魔なんだよ」と心の中で悪態をつきながら、

    そしてきっと「おばちゃん邪魔なんだよ」と思われながら、乗り換えをこなし、

    もう旅に出る前からぐったりでした。

    そして、さて予定ののぞみに乗車、というその時に

    キャリーバッグの伸縮ハンドルのところにひっかけていた

    手持ちのトートバッグが傾いて、列車とホームの隙間に定期入れと化粧ポーチを

    落としてしまいました。

    定期入れには買ったばかりの3ヵ月定期券や保険証など大事なアイテム盛りだくさん。

    化粧ポーチには化粧品の他に、旅の間に飲む常備薬も。

    とりあえず乗り込んでから、

    パニック状態で車掌室まで行って事情を話すと、車掌さんも慣れたもので

    「了解しました。東京駅に確認を取ってみますが、新幹線は3分置きに発車するので、

    すぐに見つかるかどうかわかりません」とのこと。

    当日は早起きだったので、新大阪までゆっくり寝ていこう、と思っていたのに、

    次の列車につぶされたらどうしよう、

    レールの間の変な隙間に入って取れなくなってたらどうしよう、

    と気が気ではありません。

    しかし結局、きちんと連絡を取ってくれた車掌さんが、

    名古屋に着く前あたりで「東京駅のJR東海の遺失物センターで預かっています。

    これこれこういう手続きを取って受け取りに行ってください」、とわざわざ座席まで

    報告に来てくれました。

    ありがとうございました、と何度もの御礼を言い終わったあとに、

    やっとわたしの久しぶりの一人旅がスタートしました。もう京都に着く寸前でした。

     

    わたしにとって東京駅は特別な駅です。

    1964年に開通した東海道新幹線は、東京と新大阪をつなぐ夢の超特急でした。

    子どもの頃、母と妹と3人で大きなボストンバッグをいくつも抱えて

    広島から在来線に乗ってはるばる新大阪まで行き、

    そこから上りの新幹線に乗って延々と東京にある母の実家まで旅をしました。

    新幹線には食堂車があり、自由席にも座れないほど混んでいるときは、

    母はそこでビールを飲み、わたしたち姉妹は

    普段はあまり食べられないハンバーグなんか食べていたように記憶しています。

    新大阪からの新幹線だけでも4時間にも及ぶ長旅の末、東京駅に着くと、

    ホームには母の弟であるおじさんやいとこたちが迎えに来てくれていて、

    これから楽しいことが始まるという予感に満ちた、特別な場所でした。

     

    長じて大学に入って上京し、わたしの住む場所が東京になると、

    今度は東京駅から実家に帰る、下りの新幹線に乗る日々です。

    学生の頃は親もうるさく、最低でも年に1度は乗っていた新幹線にも、

    卒業して社会人になった頃から、

    一人前に仕事が忙しいとか何とか理由をつけて乗らなくなり、

    実家に帰る頻度も少なくなりました。

    そして結婚した30代の頃には主人と二人で帰るようになり、

    40代になって義母と同居するようになると、

    また年に一度ぐらいはひとりで帰るようになりました。

    多分その頃のわたしの心境は、

    どんなに時間がかかっても荷物が多くても子どもたちが足手まといでも

    ただ東京の実家に帰りたいという、1970年当時の母の気持ちと似ていたのかもしれません。

    今、思えば。

     

    実家のある新幹線の駅に着くと、ふたつのゲートを通って、改札の外に出ます。

    一つ目のゲートを通ったぐらいで、

    改札の向こうに迎えに来てくれている父と母の姿が見えます。

    新幹線で都会から帰ってくる人を待つたくさんの出迎えの人たちの中に、

    すぐに父や母の姿を見つけては、照れくさいようなめんどくさいような気持ちになって、

    いつも頼まれて東京駅で買う父の好物の崎陽軒のシウマイをぶっきらぼうに渡して、

    駅の裏に停めている軽自動車に乗り込んだものでした。

    そして母が亡くなり、父がひとりで迎えにくるようになり、

    何年か前には父も亡くなって、

    もう新幹線の駅にわたしを迎えに来てくれる人はいません。

    わたしの手には崎陽軒のシウマイの袋もありません。

    今でもたまに一つ目のゲートを通ると、父や母の姿を探して少し泣きたくなります。

    ふたりとも亡くなった後に、実家で台所を整理していたら、

    引き出しの中から崎陽軒のシウマイに付いている陶製のしょうゆ入れが

    何十、いや何百も出てきて、一緒に片づけをしていた妹や甥と泣き笑いになったことも

    忘れられません。そんなもの取っておいても、何の使いみちもないのに。

     

    今でも、普段の生活で東京駅を通ると猛烈にノスタルジーがかきたてられ、

    新幹線に乗って広島に帰りたくなります。

    今回の久々のひとり旅で、わたしがごろごろと引っ張っていたのは

    父が遺したキャリーバッグです。ネームタグには今でも父の名前が書いてあります。

    関西からの旅の帰りには、551の豚まんを買って帰りました。

    新幹線には崎陽軒や551がよく似合います。

     

    少し早いですが、2019年もお世話になりました。

    よいお年をお迎えください。

    実家で迎えてくれる人があるなら、帰省したほうがいいと思います。

     

  • センタクの日々

    9月の半ばぐらいから、脱水の時になんとなく怪しげな音をたてているなあ、

    と思っていました。

    いつ買ったのかは忘れましたが、

    我が家の洗濯機は乾燥機のついていない普通の縦型のもので、

    メーカーは「National」です。

    現在の「Panasonic」に社名が統一されたのが2008年のことだそうですから、

    それよりだいぶ前から使っているので、

    かれこれ20年近くは汚れ物を洗ってくれているでしょう。

    さすがにそろそろ寿命かとも思い、

    それなら10月の消費税増税前に新調しようと、

    まずは市場調査に近くの家電量販店に出かけてみました。

     

    まず1件目A店、あまり下調べもせず行き当たりばったりで出かけた店舗で、

    普通の縦型洗濯機、乾燥機付きのドラム式、乾燥機付きの縦型、

    のフタを開けたり閉めたりしながら、

    あーだこーだ検討しているわたしたち夫婦を「買う意思あり」、と見たのか、

    店員さんが寄ってきます。

    Tという家電メーカーのジャンパーを着たお兄さんは、

    当然T社のドラム式洗濯機を薦めてきます。

    セールストークは「このタイプは来月モデルチェンジするので、

    旧型を買うなら今がチャンスです」。

    モデルチェンジ後の最新型は35万円ぐらいしますが、

    この旧型は現品限りで23万円くらい。いや、それでも十分高価ですが。

     

    次に買う洗濯機は、

    わたしたち夫婦にとって、多分最後の洗濯機になると思います。

    これから年老いていくわたしたちに必要な機能は何か、

    乾燥機は必須かもしれませんが、わたしは天日干しをしたい。

    広い家に住んでいるわけでもないので、干すための階段の上り下りもない。

    しかしいつまでも足腰が丈夫ではないかもしれない…。

    あれこれと考え始めたら、まったく決められず、とりあえず各社の

    パンフレットなどもらって帰宅しました。

     

    そして消費税増税前の最後の休日、2件目のB店に赴きました。

    こちらはA店よりも品揃えも豊富で、多少の予備知識も蓄えたわたしたちは

    P社の法被を着たお兄さんに積極的に話しかけてみました。

    洗剤自動投入などの最新機能の説明を一通り聞いた後、

    「で、ぶっちゃけ、どこの洗濯機が一番いいの?」と。

    お兄さんいわく、「白物家電に限って言えば、うちのP社かH社です」と、

    他社をも勧める良心的な答え。

    そのお兄さんの発言を意気に感じて、P社の洗濯機を買おう、と決意しました。

    しかし、そこで言われました。

    “契約や支払いは9月中にできるが、配送が立て込んでて間に合わないので、

    配送料などは増税後の消費税が適用される”、と。

    なんだか一気にめんどくさくなりました。

    そして結論ですが、今も我が家の洗濯機は20年前のNationalのまま、

    汚れ物を洗い続けています。

    きゅるきゅると言う妙な音もなぜか聞こえなくなったような気がします。

    買い替える、という声を聞いて、心を入れ替えてくれたのでしょうか。

    モノにも魂は宿ります。

     

    それから10月になり、消費税は10%になりました。

    現金派だったわたしも、キャッシュレスならポイント還元、のキャンペーンに

    つられて、PASMOやPayPayを日常的に使い始めました。

    なんとかペイもさまざまありますが、なにを選択すればいいんでしょうか。

    そしてたとえ洗濯機が壊れたとしても、

    なんとかペイで払って還元してもらえばいいじゃないか、

    と思い至っています。

    しかし財布の中の現金があまり減らなくなったので、

    裕福になったような気がして、逆にムダづかいをしているような気も。

     

    そう言えば巨額の申告漏れが発覚したお笑い芸人も、

    家電芸人として「アメトーク」なんかに出ていました。

    店員風の法被を着て、さまざまな商品をPRし、

    おそらくその縁で地方の量販店のCMにも出ていました。

    芸能活動は自粛しているようですが、トークはプロなんだから、

    売り場に立ったらトップセールスマンになれるでしょう。

    わたしは彼からだったら

    35万の最新式の洗濯機を買ってしまうかもしれません。

    選択の余地はないと思います。