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くくる日々
最近目が悪くなったなあ、と感じることが多くなりました。
年齢のせいか、しょうがないか、眼鏡買い替えるか、と思っていたら。
気がつきました。そうか、節電してるからか。
世の中とはうらはらに頭の中の電球は点灯しました。駅が暗い、店が暗い、街が暗い。
郊外ではコンビニの駐車場にある支柱の高い看板も消灯されていたりして、
離れた場所から見ると営業しているのか、そうでないのかわからなかったり。
最大の難関だった夏場を乗り切っても、
世の中のいろいろなエネルギーは当然節約モード。
腹八分目で稼働しているようです。
というか、今までが食べすぎ、明るすぎだったわけで、
そりゃあ成人病にもなるし、ヒザにもくるわ、という感じ。
慣れてしまえばさしたる不自由もなく、
温暖化だのなんだので、以前から推奨されていたエコ生活がリアルに自分ごと。
素直に取り組むことができるのは、3.11以降のわずかな功の部分かもしれません。
暑いとか寒いとか、暗いとか、ちょっと文句はいうけどね、弱いから。
でも節電とか募金とかボランティアとか、やることはやる、国をあげてのツンデレ気質。しかしついこの前まで「冷房の設定温度を上げて節電しましょう」だったのが
下手したらもう暖房どうする?モード。
夏と冬の間にあった、
エアコンのいらない快適な季節はもうやってこないのでしょうか。それにしてもツンデレとか、草食系とか、女子会とか、弁当男子とか、ニートとか。
カテゴリーにつけるネーミングっていうのはうまくしたもので、
名前がついた途端に市民権を獲得。その輪郭がくっきりと見えてきます。
『アメトーーク!』のオープニングで蛍ちゃんが必ず“今日は何のくくりですか?”と訊くように、
“くくる言葉”というのは便利なアイテムです。ただの気の弱い男性も「草食系男子」といえば、何かしゅっとしたイケメンのイメージもするし、
いつもの居酒屋での愚痴呑みも「女子会」と言ってしまえば、バールでイタリアン。
引きこもりだって「ニートですけど何か?」と開き直ることもできる。
ちなみに個人的に最大の市民権を得たくくる言葉は「ヤンキー」だと思っています。もし『ビストロSMAP』に呼ばれたら、何をオーダーしようかと考えている自分、
メガネ男子といえば『モテキ』の森山未來に萌える自分、
『アメトーーク!』のくくりではさしずめ“妄想芸人”でしょうか。
しかも中二病のオトナ女子。元ヤンではありません。
ふざけるな。すいません。 -
嗅ぐ日々
某消臭剤のCMが話題になりました。
ミゲルくんというポルトガル人の少年が朗々とCMソングを歌っているあれです。
最近では歌唱力も身長もほぼ同じくらいの
西川貴教@T.M.Revolutionと共演までしています。
きっとダイスケ的にもオールオッケーだったのでしょう。
それにしてもその消臭剤のネーミングが
あの革命戦士・長州力からきていたことを最近知りました。
世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあります。一生勉強です。しかし何もそんなに消さなくても、と思うのは私だけでしょうか。
悪いにおいの場合は「臭い」と書き、
よいにおいの場合は「匂い」と書きます。こちらの場合は「香り」ともつかいます。
悪臭、であり、芳香、というわけです。
煙草のにおい、汗のにおい、口のにおい、タンスのにおい、部屋のにおい、
トイレのにおい、ペットのにおい…、
世の中にはにおいがあふれ、その数だけ消臭グッズがあり、
臭いものにはフタをされまくり、におわないために人が飲む薬まであります。人は大きく2種類に分けられます。
犬派か猫派か、片づけられるかられないか、泳げるか泳げないか、ドトールかスタバか、
綾波レイかアスカか、そばかうどんか、ボケかツッコミか、布団かベッドか、
たらこかシャケか、チャゲか飛鳥か。
そして嗅ぐか、嗅がないかに。梅雨時の生乾きの洗濯物を、何日も放置した布巾を、
明らかに開けてはいけない夏場の3日前のカレー鍋を、
1日中外を歩き回って脱いだばかりの靴下を…。
わかっているのに鼻孔を近づけるタイプの人に親近感を覚えます。
自分がそうだからです。煙草の臭いではなく煙草の匂い、
汗の臭いではなく、汗の匂い、と表記したいわけです、個人的には。
消さずに嗅ぎたいわけです、好きな匂いを。
腕時計の裏の匂いとか、切った爪の匂いとか、聴き終わってすぐのイヤホンの匂いとか…(以下自粛)。プルーストの大作「失われた時を求めて」では
主人公がマドレーヌの匂いをきっかけにして、子供の頃の記憶を呼び覚まします。
街ですれちがった人がつけていた香水の匂いで別れた相手を思い出してどうのこうの、
みたいな歌詞も古い歌謡曲にあったような気がします。
においは記憶と結びついているわけで、
最近やけに昔の夢ばかりみるなあと思ったら、
枕からそこはかとない親のにおいが。
やはり適度な消臭は必要なのでしょうか。夏ももう終わりです。
隣は何をする人ぞ。幻臭でしょうか、秋刀魚を焼くいい香りが。 -
冷しの日々
それにしても暑い。
昼間の30度越えは仕方ないとしても、
夜になって地元の駅に降り立っても、じっとりとまとわりつくような熱気がおさまる気配がない。
ひと昔前なら、日中はどんなに暑くても、夏休みの子どもは早朝のラジオ体操へ、
仕事終わりの大黒柱は暑気払いにビヤガーデンへ。
気温の方にも気配りがあって、昼間さえやり過ごせば、何とかしのいでいけたものだ。それにつけても腹が減る。
どんなに気温や湿度が上がろうと、残念ながら食欲は下がらない。
とはいえ、普段は好物の熱々のラーメンやじゅうじゅうと焼肉、
という気にもならず、おのずと求めるのは冷たい麺類。思えば小学生の頃、夏休みの昼ごはん、といえば定番だったのがそうめん。
今でこそ市販の麺つゆがストレートタイプから2倍濃縮、3倍濃縮、いりこだ、かつおだと、
メーカーも様々に出揃っているが、当時はそんな便利なものはなく、すべて母の手づくり。
麦茶のポットと同じ容れ物にたっぷりつくられた麺つゆを、
間違えてコップに注いで飲み干したことも、正しい昭和の夏の思い出である。
「また、そうめんかあ」と文句ばかり言っていた、真っ黒に日焼けした小学生の自分。
「いやなら食べなくていい」と怒っていた母も数年前に他界してしまった。
今の自分が小生意気な小学生に同じことを言われたら、
きっとあの頃の母の何倍も怒鳴る。例えそれが水で薄めただけの麺つゆだったとしても。ブログというより、随筆風の文体なのも、きっと暑いからだ。
日々、うまい冷し中華と冷したぬきを求めて、街を彷徨っているからなのだ。
冷し中華(以下・冷中)といえば、
地元にあった「ラーメン北斗」の冷中をもう一度食べたい。
いつの間にか閉店していてもう2度と食べることはできないと思うとなおさら恋しい、
間違いなく都内ナンバーワン冷中だったというのに。
この件に関して異論は認めるが、
そもそも味の良し悪しなど極めて個人的なものでしかない、
自分が一番うまいと思っていればそれでいいのだ。
店のたたずまいや寡黙な店主の手さばき、
そんなものとともに思い出される味がひっそりと記憶に残っていればいいのだ。
みんな同じ生きているから、ひとりにひとつずつ大切な冷中…。ちなみに冷したぬきはうどんに限る。
揚げ玉というよりも天かす、あの廃物とも言えるジャンクな具材を受け止める相手に
細めの蕎麦では役者不足。無骨なうどんの方が適役だ。
汁を吸ってふやけた天かすと太いうどん、嗚呼、口中にひろがるえもいわれぬ食感。
うまい。冷したぬきうどん。
さらに甘辛く煮た油揚げがのっていればもう言うことはない。
うま過ぎる。結局冷したぬきつねうどんじゃねえか。
世の中がどんなに地デジ化されようと、
自分はアナログな味わいを求めてやまないのである。さて、いささか暑苦しい文章になったようだ。
頭を冷やすためにそうめんでも茹でるとしよう。
薬味には斜めに薄くスライスしてから千切りにした胡瓜を忘れずに。葱ではなく、胡瓜。
そこに胡麻油をたらりと回しかけ、あれば白胡麻もぱらり。
好みの量を麺つゆに入れ、あとはずるずると食すべし。
胡瓜とそうめんがある限り、いくらでもいけることは保証する。
亡き母にも食べさせたかった、レシピというのもおこがましい夏の手抜き食。
そういえば今年も盆の入りである。 -
探す日々
「探しものは何ですか?」と、
ギターをかき鳴らしながら井上陽水が近づいてきた時のために
用意しているこたえはありますか。
新橋駅の改札口でかばんの中に手を突っ込んでがさがさやっている時なら、
「パスモです」とか「ケータイです」とか。
幕末にタイムスリップした南方仁なら、
「ペニシリンです」とか「ホスタミンです」とか、
歴史を変えてしまうような立派なことをこたえるのでしょうか。未来とか方向性とか、探しようがないのに模索してしまうものもありますが、
自分にとっての身近な探しものは、書き味のよいペン、です。
文房具屋や雑貨屋に入ると、筆記用具売り場へ。
色々と試した結果、
筆圧が強いので、ボールペンとマジックの間ぐらいの少し柔らかめの書き心地、
ペン先は細すぎず、太すぎずの0.4㎜ぐらいがベスト。その条件の範囲内でさまざまなメーカーのペンを手にとって、
試し書き用の長い紙に線をぐるぐる書いてみたり、
あいうえお、あいうえお、と繰り返したり。
自分の名前を書いて、その上からぐりぐりと塗りつぶしてみたりも。
なかなかしっくりくる1本は見つけられないのですが、
運よく出会った時は、必ず赤と黒を1本ずつ買って納得しています。聞くところによると試し書きに一番ふさわしい文字は「永」だそうです。
「永字八法」といって、点とか、はねとか、はらいとか、
毛筆の場合に必要な八つの技法がすべて入っている文字なのだとか。
これを知ってからは、通ぶって、
永遠とか永久とか、意味ありげな文字を書いてみたりもします。それにしても手書きで文字を書く機会が格段に減っているので、
字がどんどん下手になる。下手、というか、書き慣れてない感じ、というか。
何かに載っていた「遅筆堂」井上ひさしの戯曲の原稿。
推敲した赤字までびっしり入っていた、
達筆、というのともまた違う、オーラのある文字。
せめて文字ぐらいは、ああいうのを目指したい。文字だけとしても怖れ多いですが。ラフとかアイディアスケッチをさらさらっと描いただけでも、
おおっ!と人をうならすことのできるデザイナーがいるように、
メモ書きひとつでも味のある文字で書きたい。
そのためにも少しでもうまく見えるような筆記用具をいつも探しているのです。
わかっています、本当に大事なのは内容です。ちなみに斉藤由貴がポニーテールを揺らしながら
「探しものは何ですか?」訊ねてきた時は
「うまいお好み焼き屋」とこたえるつもりです。
意味がよくわからない人はまわりのアラフォーに聞いてください。 -
ポタリングの日々
何年ぐらい前からでしょうか。
通学はともかく、通勤にも自転車が利用されるようになって、
スーツ姿でペダルを漕ぐサラリーマンの姿も珍しくなくなったのは。
もうブームでも何でもなく、
タイヤの細い高級そうな自転車が
オフィス街のそこかしこでがっちりと施錠されているのも当たり前の光景になりました。2年ぐらい前に久しぶりに自転車を買いました。
何十万円もするロードバイクにまたがっている人から見れば、
子どもの三輪車レベルの小さな折りたたみ自転車です。
数えてみれば東京に住みはじめてから3台目、
過去の2台は引っ越しやら何やらでどこでどうなっているのか記憶もありません。
もちろん2台ともシティサイクルともいう、ママチャリでした。しかし、というか、やはり、というか、久しぶりに乗ってみると、これが結構楽しい。
多摩川沿いのサイクリングロードを初めて走った時の、風を切る感じ。
わずかな勾配を立ち漕ぎで登る時の、汗ばむ感じ。
高校の時の自転車通学を思い出します。
かわらのみっちをじってんしゃでー、はっしる君を追いかーけたー♪
鼻歌はいつもスピッツです。
当然、ヘルメットを装着して前傾姿勢でシャーシャー走っているロードレーサーには
どんどん追い抜かれていきます。
それでも陽気がよくて、調子もよければ、
自宅からの往復で30kmぐらいは走れることもあり、
いつもだらだらごろごろぶよぶよしている自分的には大冒険です。
おかげで近所の公園に詳しくなり、多磨霊園から武蔵野公園、野川公園を通って、
武蔵野の森公園で調布飛行場に離着陸する飛行機を眺めるルートは
もう何度となく行ったり来たりしています。年齢のせいでしょうか、時代でしょうか。
少し前まではあまり興味のなかった自然とか緑とか、そういうものに目が向くようになりました。
エコとか、ロハスとか、の裏には、不景気とか、デフレとかも見え隠れしますが
自身がこういう過ごし方、暮らし方に喜びや意義を見出すとは思ってもいませんでした。調子に乗って、去年のG.W.にはサイクリストあこがれの「しまなみ海道」を、
瀬戸内の風に吹かれて走ってきました。
しかしアップダウンがきつく、体力不足&ヘボい折りたたみ自転車では難行ではありました。
それでも橋の上から眺めるきらきら光る海や点在する島並みに、
しんどさを補って余りあるだけの爽快感をもらえました。おすすめです。自転車で気ままにぶらぶらすること、
いわば自転車での散歩、のことを「ポタリング」というそうです。
空気は汚さないし、交通費はかからないし、運動不足解消にも、と
自転車のメリットは数々言い尽くされています。
都内では震災の際の帰宅困難時に売れたものとして、スニーカーや自転車も挙げられていました。
それがきっかけで自転車に目覚めたという話も耳にします。
今度自転車を買う機会があったら、
ロードバイクよりは電動アシスト付きかも、とも思う、軟弱な自転車乗りではありますが、
天気のいい週末は近所を走ることを続けようと思います。ポタポタと。