冷しの日々

それにしても暑い。
昼間の30度越えは仕方ないとしても、
夜になって地元の駅に降り立っても、じっとりとまとわりつくような熱気がおさまる気配がない。
ひと昔前なら、日中はどんなに暑くても、夏休みの子どもは早朝のラジオ体操へ、
仕事終わりの大黒柱は暑気払いにビヤガーデンへ。
気温の方にも気配りがあって、昼間さえやり過ごせば、何とかしのいでいけたものだ。

 

それにつけても腹が減る。
どんなに気温や湿度が上がろうと、残念ながら食欲は下がらない。
とはいえ、普段は好物の熱々のラーメンやじゅうじゅうと焼肉、
という気にもならず、おのずと求めるのは冷たい麺類。

 

思えば小学生の頃、夏休みの昼ごはん、といえば定番だったのがそうめん。
今でこそ市販の麺つゆがストレートタイプから2倍濃縮、3倍濃縮、いりこだ、かつおだと、
メーカーも様々に出揃っているが、当時はそんな便利なものはなく、すべて母の手づくり。
麦茶のポットと同じ容れ物にたっぷりつくられた麺つゆを、
間違えてコップに注いで飲み干したことも、正しい昭和の夏の思い出である。
「また、そうめんかあ」と文句ばかり言っていた、真っ黒に日焼けした小学生の自分。
「いやなら食べなくていい」と怒っていた母も数年前に他界してしまった。
今の自分が小生意気な小学生に同じことを言われたら、
きっとあの頃の母の何倍も怒鳴る。例えそれが水で薄めただけの麺つゆだったとしても。

 

ブログというより、随筆風の文体なのも、きっと暑いからだ。
日々、うまい冷し中華と冷したぬきを求めて、街を彷徨っているからなのだ。
冷し中華(以下・冷中)といえば、
地元にあった「ラーメン北斗」の冷中をもう一度食べたい。
いつの間にか閉店していてもう2度と食べることはできないと思うとなおさら恋しい、
間違いなく都内ナンバーワン冷中だったというのに。
この件に関して異論は認めるが、
そもそも味の良し悪しなど極めて個人的なものでしかない、
自分が一番うまいと思っていればそれでいいのだ。
店のたたずまいや寡黙な店主の手さばき、
そんなものとともに思い出される味がひっそりと記憶に残っていればいいのだ。
みんな同じ生きているから、ひとりにひとつずつ大切な冷中…。

 

ちなみに冷したぬきはうどんに限る。
揚げ玉というよりも天かす、あの廃物とも言えるジャンクな具材を受け止める相手に
細めの蕎麦では役者不足。無骨なうどんの方が適役だ。
汁を吸ってふやけた天かすと太いうどん、嗚呼、口中にひろがるえもいわれぬ食感。
うまい。冷したぬきうどん。
さらに甘辛く煮た油揚げがのっていればもう言うことはない。
うま過ぎる。結局冷したぬきつねうどんじゃねえか。
世の中がどんなに地デジ化されようと、
自分はアナログな味わいを求めてやまないのである。

 

さて、いささか暑苦しい文章になったようだ。
頭を冷やすためにそうめんでも茹でるとしよう。
薬味には斜めに薄くスライスしてから千切りにした胡瓜を忘れずに。葱ではなく、胡瓜。
そこに胡麻油をたらりと回しかけ、あれば白胡麻もぱらり。
好みの量を麺つゆに入れ、あとはずるずると食すべし。
胡瓜とそうめんがある限り、いくらでもいけることは保証する。
亡き母にも食べさせたかった、レシピというのもおこがましい夏の手抜き食。
そういえば今年も盆の入りである。