• 「sorry」を日本語で訳すと?

    この間、ロンドンに行ったんです。

     

    中学生の頃、母と姉とツアーで行ったことがあるのですが、

    正直記憶はおぼろげもおぼろげで…初めて訪れる都市に思えました。

     

    ロンドンは思っていたよりもずっと人がせわしなく、

    特に通勤時間帯は、地下鉄も東京のように混み合い行列ができます。

    TUBEと呼ばれるロンドンの地下鉄は、

    プラットフォームがその名の通りチューブの形状のトンネルで、

    電車もかまぼこみたいな形でした。車内もね、天井が丸いんです。

    日本の地下鉄と比べると、とても小さいです。銀座線より小さいのではないでしょうか。

    みんな体が大きくて足も長いから、

    あっちの座席とこっち座席の間に人が立つことは、けっこう無理。

    だから、みんなドアの近くに立ちます。

    日本の地下鉄の乗客は、ほぼ日本人のように見えますが、

    ロンドンの地下鉄は欧米、南米、中東、アジア、そしてインド…と実に多種多様。

    なかでも、背の大きい男性や女性はみんな背中を丸めて乗っていました。

     

    大学まで「英語」を勉強してきたわりに、いざとなるとてんで話せない。

    渡英前に「3語で伝わる」というふれこみの本を買ったりして、意欲だけはあったのですが…

    自分の英語のできなさという現実に、また直面しました。

    じゃあどんな英語なら話せたのか?

    そうです、「sorry」と「thank you」です。

    ロンドンが観光地であることも関係していると思うのですが、

    「sorry」と「thank you」には必ず「no problem」などが返ってきます。

     

    たとえば、

    ロンドンの人たちは、自分の動線上に人がいたら「sorry」と声をかけます。

    道を開けてほしいからですね。

    もし先に気づいたら、道を空けます。

    空けてもらったら「thank you」そして「no problem」など。

    この流れが自然すぎるほど自然でした。

    (返しの言葉はたくさんあるので気になった方はwebで探してみてください)

     

    日本では、降りたい人がいてもなぜか石になったようにどかなかったり、

    どかない人を無理に押しのけてケンカになったり、

    なんだか物騒な車内トラブルが絶えませんよね。

     

    わたし、ロンドンで過ごしてみて、これはなぜだろうと考えたんです。

    まぁ主な原因としては、過密すぎる朝夕の通勤ラッシュでしょう。

    でも、もしかしたら、英語と日本語の心理的使いやすさのちがいも、あるんじゃないか。

    そんな考えが浮かびました。

    日本語の「すみません」「ありがとう」「いえいえ」が、

    ちょっとした会話のなかで、使いにくいんじゃないかと思うのです。

     

    「すみません」には、謝罪の意味合いがありますよね。

    もちろんsorryにもそれはあるわけですが、

    sorryはもっとカジュアルなことばに思えます。

    それが丁寧語なのか普通なのかは文脈で決まります。

    でも、「すみません」は字面からして明らかに丁寧語ですよね。

    カジュアルなすみませんは、「ごめんね」です。

    ごめんねと比べると「すみません」は、丁寧でさらに謝罪っぽいわけです。

     

    つまり、ごめんね=sorry、すみません=sorry。

    この非対称性が、日本人に「すみません」を使わなくさせている、という仮説。

     

    なんで降りるときにいちいち謝らなきゃいけなんだ、当たり前だろ、察しろ。

    みたいに思っている人って、実は多いんじゃないでしょうか。

     

    もっとふつうに、フランクに「すみません」が言えたら、

    いざこざが減る気がするんですけどねぇ。

    日本でちょっと人とぶつかってしまったとき、

    「あ、ごめんね」だと、いや友だちか?ってなるじゃないですか。

    「ごめんなさい」「すみません」のほうが、知らない人にはふさわしい。

    でも、なんとな〜くそれも言わない人が増えているような。

    「ごめんねごめんね〜」と言えればよいですが、ちょっとなれなれしい感じもあります。

    だとすると、やっぱり「sorry」がいちばん使いやすいんですよね。

    英語って便利。すごい。そりゃ世界の公用語になるわけだよ。

     

    ロンドンやニューヨークといったグローバルな大都市で

    面と向かってお礼を言ったとき、謝ったとき、ちゃんと返答があるのは、

    多国籍の人々が多いゆえに最大公約数としてのマナーをみんなが守って、

    いらぬトラブルを避けようという心理が働くからかもしれません。

     

    日本は最近でこそ多国籍の人々が増えましたが、

    「以心伝心ローカルルール」が根強すぎるように思います。

    言葉に出して、言葉を通して、コミニュケーションをとるっていうのが、

    日本人はほんとうにヘタクソというか…

    あ、他人事みたいに言ってますけど!

    知らない人とでも、もっとニュートラルに会話できるように、

    やっぱり「sorry」の日本語訳をあたらしく考えだすべきかもしれません。

    そして、そのあたらしい日本語訳で、

    今日電車で隣になった知らないあの人と会話をはじめるのです。

     

    「ソーリー」

     

    ね、使いやすい。

    今回はせっかくなので、TUBEの写真を。

  • こどもの敵はどこから?

    ゴルフにはあまり興味がないのですが、

    つい全英オープンはWOWOWで見てしまいました。

    なにかと「笑顔」が取り上げられる彼女ですが、

    それよりなにより、世界大会で優勝する実力はすさまじいものだと思います。

    あるスポーツ記者が大坂選手が全米オープンで優勝したとき、

    ラジオでこんなことを言っていました。

     

    「大坂選手を見ている子供達は、世界一になれるんだ、というのがスタンダードになる。スポーツ界にものすごい変化をもたらすことですよ。」

     

    未来を変えつづけるのは、こどもたちなのかなと思います。

     

    Netflixオリジナルドラマとして空前の大ヒットとなっている

    あるドラマシリーズも、「こどもたちの物語」です。

     

    わたしはホラー映画の類いが苦手で、映画館でも家でもほとんど観ません。

    サスペンス映画も、あまり手を出したことがないのです。

    『ジュラシック・パーク』を見るのにもちょっと気合いがいるくらいです。

    『エイリアン』っぽいのかな、と漠然とした印象で見始めた、くだんのドラマ。

     

    1984年、アメリカ中西部のインディアナ州、

    ホーキンスという町で起きる

    ある異様なできごとが描かれているフィクションですが、

    とにかく、とにかく面白い!

    さまざまなアメリカの映画やドラマ、音楽へのオマージュがちりばめられ、

    アメリカのカルチャーが好きな人にはたまらない作品です。

    各話40分〜1時間程度で1シーズン8話ほど。

    ベースはホラー映画なのですが、

    80年代の素晴らしい不自由さ(インターネット環境がないなど)と、

    それゆえの牧歌的なチャーミングさが描かれ、なんだかうらやましく思えます。

    登場人物もみんな魅力的で、最新シーズンを見終えた夜、

    ベッドのなかで彼ら(登場人物たち)のことを想って、わたしはちょっと泣きました。

    次のシーズンで最後だという噂もあり、

    焦がれるような気持ちで次のシーズンを待っているところです。

     

    人間にとっての「敵」と想定されるのは、

    幽霊やゾンビ、怪物や化け物、エイリアン、地球外生命体といったものがありますよね。

    そうした存在が、あるとき突然、

    ふだん暮らしている世界の裂け目から、はい出してくる。

    このドラマのなかでは「Upside Down(あちら側)」と呼ばれますが、

    人間がうかがいしれない世界と、そこに巣食う未知のクリーチャーの姿を

    これほど魅力的なイマジネーションをもって描いたドラマは、

    なかなかないのではと思います。

     

    こどもの頃、暗闇がこわかったです。

    視線が低かったからでしょうか。

    大人になった今より、暗闇を、広く、大きく感じていた気がします。

    それでも不思議と、無力感はあまりなかったように記憶していますが、

    みなさんはどうでしたか?

    ドラマのなかでも、少年少女たちが現実に現れた怪物を

    パチンコのおもちゃで倒そうとするシーンがあります。

    到底そんなもので倒せるわけはないのに、

    目の前で対峙した瞬間には、ゲームのなかでしていたような攻撃しかできない。

    一方で、特殊な力をもつ少女も出てきます。

    彼女が物語の主人公と言っても過言ではありませんが…

    おっと、これ以上は見てのお楽しみということで。

     

    少年少女ゆえの限界や敗北感はリアルでありながら、

    彼らの友情、理想や飛躍といった、ピュアでどこか大人びた心はとてもまぶしいです。

    自分が味わったはずの、でもどこかで忘れてしまった気持ちや懐かしい記憶を、

    それぞれのこどもたちによって、べつの形でもう一度体験できるドラマ。

    わたしは、彼らが「大人ではないこと」が、

    こんなにもヒットしている要因なのではないかと思いました。

     

    2010年代のいまは、ネットで検索してしまうと

    検索ワードの予測機能でネタバレにあたってしまうので、

    Netflix直行をおすすめします。

    ぜひ。一緒にストレンジャーシングス・ロスになりましょう。

  • 「エプロン談義」

    そろそろ、梅雨明けでしょうか。

    それはそうと、先月、こんなニュース記事が目に飛び込んできました。

     

    「有害な」男女のステレオタイプ描く広告、イギリスで禁止

     

    内容としては、

     

    イギリスの広告基準協議会(ASA)はこのほど、「深刻もしくは広範な被害」につながる可能性のある「性別にもとづく有害なステレオタイプ(世間的固定概念)」を使った広告を禁止した。一部のステレオタイプに基づく表現が、「人の可能性を狭める」一端を担いかねないとしている。

    ASAの決定に伴い、イギリス国内の広告では今後、男性がくつろぐ間に女性が掃除していたり、男性がおむつ替えに失敗したりするなどのシナリオは使えなくなる。

     

    というものでした。

    続きます。

     

    このほか、新規制で「有害」と認定される可能性のある描写には以下のようなものがある。

    • 男性が赤ちゃんのおむつ替えに失敗したり、女性が駐車に失敗するなど、性別が原因で特定のタスクに失敗する描写

    • 出産したばかりの母親に、心の健康よりも、外見をきれいに整えたり家事をきちんとする方が大事だと示唆する描写

    • 従来のステレオタイプで女性の役割とされてきた活動に従事している男性を軽んじる描写

     

    わたしは、イギリスでのこうした動きに対して、いいなと思いました。

    広告は、商品を広告します。

    同時に、その商品が「だれの手に届いてほしいか」も表現している。

    表現した以上、その表現を積極的・主体的に選択していると見なされます。

    この広告は、「有害」な世間的ステレオタイプを助長し固定するものではないか?

    わたしは街でさまざまな広告を目にするたびに、自分に問いかけることが多くなりました。

    そういう世間的ステレオタイプが嫌だから。

    嫌なんです、肌感覚的に。

    古くて、ダサいから。

     

    例えば。

    わたしは、ずっと「エプロン」が引っかかっているんです。

    家事(食事の買い出し、料理の支度、洗濯、洗い物など)をするときに、

    自分自身エプロンを着たことはこれまで1回あったかどうかなのですが、

    みなさんはありますか?エプロン。

    広告表現において、エプロンは「家事」の象徴ですよね。

    わたしもわかるんです、家事をイメージしてるんだな、と。

    でも、多くの家庭で、家事をする人はエプロン着ないんじゃないでしょうか。

     

    自分の母のことを考えてみると、共働きで、エプロンは着ていませんでした。

    そんな背中を見ていたからでしょうか。

    洋服の前側を汚さないために着るエプロンはずっと遠い存在でした。

    父ももちろん、エプロンなんて着ていませんでした。

     

    でも、テレビや新聞、雑誌、インターネット、様々な表現があふれる場で

    「エプロン」は家事をしている人の象徴で使われています。

    もちろん、広告は「伝わる速さ」が重要なので、

    「エプロン=家事」が今も瞬間的に伝わりやすいのでしょう。

     

    エプロン、着ないけど。

    ここなんですよね、わたしがなんとなく引っかかるのは。

    朝起きてご飯もそこそこに家を出て、

    仕事して、夜遅く家に帰って、エプロン着たいかな。

    わたしは外で着ていたものぜんぶ脱ぎ捨てはしたいですが、

    エプロンをわざわざその上から着たいとは思わないです。

    ヒモむすぶのなんかも、面倒だし。

    家では、一番楽なかっこうでいたいし。

    でも、シロさんはじめ、エプロンして家事をする人ももちろんいますよね。

    部屋着が汚れるのが嫌だから、エプロンを着るとテンション上がるから。

    「心の余裕」「きちんとしている感じ」があるから。

    うん、そういう人もいます。それはそれでよくて。

    エプロンを悪者にしてエプロン反対!ってしたいわけじゃないんです。

    でも、じゃあ、家事にまつわるAという商品の広告においては、

    エプロン着る女性、エプロン着る男性、エプロンを着ない女性、エプロンを着ない男性、

    エプロンを着る犬、エプロンを着るネコ、エプロンを着る◯◯……。

    この中のどのイメージをどういう理由で選択して、なにをメッセージとして表現するのか。

    そういうことをみんなで共有して考えた上で、

    「今回はエプロンありの女性でいきましょう」ってなってほしくないですか?

    わたしは、なってほしいんですよね。

     

    広告が「表現」するとき、

    そこにステレオタイプがあるのか、ないのか、

    あるとしたらそれは今、どんな捉えられ方をしているのか、

    そもそも自分はどう感じるのか、

    クライアントのイメージはどこをめざしているのか、

    そしてその目標はいまの時代にどう反応されるのか。

    いちいち立ち止まって、「表現のその先」を考えることが大事だと思います。

     

    わたしは、広告が、役割や世界観を固定化するものではなく、

    可能性や自由を広げるものであってほしいと思うようになりました。

    自分の考えや言葉が、だれかの可能性や自由を広げるものであったなら、

    それ以上幸せなことはない気がします。

     

    これまで普通だと思われていたことは、

    もう普通じゃないかもしれなくて、

    その移り変わりのスピードはどんどん早くなっている。

    アプリのアップデートさえ日常的なのに、

    人間が初期設定のままでうまくいくのでしょうか。

    アップデートするかしないかは自由だとしても、

    最新の状態がどんな状態かくらいは、気にしたほうがいいとわたしは思うのです。

    みなさんは、どうですか?


    Users who have LIKED this post:

    • avatar
  • ラーメン大好きマダムさん

    「ラーメン大好き小池さん」のノリでタイトルにしたのに、

    なんだか適当な(それも偽物の)アカウント名みたいで嫌な感じです。SNSめ。

    小池さん(弊社役員)もラーメン好きなんでしょうか。

     

    ラーメンなんて、どこも同じでしょ。

    わたしはずっとそう思ってきました。

    今も、心のどこかにその思いがあります。

    でも。

    どうせ行くなら「おいしい」とされる店に行きたい。

    「おいしい」は、今、ある程度の予測ができますよね。

    某サイトの格付け基準で3.5以上などの高評価の店、

    ミシュランの星が付くような店、

    そういう店は一般的においしい可能性があります。

     

    その日、わたしは完全に「カレーのお腹」になっていました。

    朝から気温はぐんぐん上がり、爽やかな風が吹くまさに五月晴れ。

    こんな時は空きっ腹にスパイスたっぷりのカレーをぶち込み、

    汗をかいて元気になりたいと思ったのでした。

    ところが、同じことを考える人が大勢いたようで

    いつもなら14時半に行っても余裕で入れるそのお店は、

    14時すぎには準備中の札がかかっていました。

     

    極度のカレー腹を抱え、わたしは途方に暮れました。

    ふと、気になっていたラーメン屋があったことを思い出すと、

    もと来た道を戻り、そのラーメン屋へ行ってみようという気になったのです。

     

    その店は、先に食券を買うスタイルでした。

    ラーメンだけにしておけばいいものを、カレー腹が底の方から、

    「ご飯ものがないと気が済むわいなぁ!」と、わたしに呼びかけます。

    結局、トロたく丼(小)と醤油ラーメンのセットを購入。

    やっちまった。

    トロたく丼(小)+醤油ラーメンなんて

    小腹をすかせた男子高校生のつもりか。

     

    さらに、席に着いてから2種類のスープどちらかを選びます。

    わたしは「すっきり」というスープを頼みました。

    カウンター越しのラーメンお兄さんが「すっきり一丁」と応えます。

     

    待つこと数分。

    ラーメンお兄さんが先にトロたく丼(小)を出してくれました。

    隣の若いビジネスマンは、丼ものなんて頼んでませんでした。

    少食かい!いいけど。全然。

    トロたく丼(小)おいしいよ?(余計なお世話です)

     

    そして。

    「こってりです、どうぞ」と

    ラーメンお兄さんがラーメンを出してきました。

     

    こってり?

    今、こってりって言ったよね?

    わたしが頼んだのは?

    すっきり。

    テーブルに置いてあるスープの説明を読むと

    「こってりは背脂がたっぷり浮いて・・・」との文字。

    わたしは目の前に出されたラーメンのスープに目を落としました。

     

    背脂、浮いてるっちゃ、浮いてる。

    これは……どっちなの?

    お兄さんはこってりって言ったけど、実はすっきりなのか、

    お兄さんがこってりって言ったとおり、こってりなのか。

    後者だとお兄さんが注文を取り間違えたことになります。

     

    わたしは、思いきってお兄さんに声をかけました。

    「すみません、すっきりって頼んだんですけど」

    お兄さんは一瞬こわいような顔になって、スープを見やりました。

    「それすっきりです大丈夫です」

    わかっちゃねぇなという半ば呆れた顔で言われました。

     

    これ、すっきりなんだね!!

    でもラーメンのお兄さんこってりって言ったじゃん!!

    こってりって言いましたよね!?

    ねえ、ビジネスマンのお兄さん!?

     

    わたしの心の声には特に興味なさそうに、

    ビジネスマンのお兄さんは自分の麺をすすっていました。

     

    言われてみればたしかにスープは透き通っていて、

    ひと口すすったら「すっきり」だとわかりました。

     

    ダシの効いたいい味でした。

    舌はそう感じているのになんだか気詰まりな気持ちで、全然すっきりしません。

    わたしは醤油ラーメンをしずしずと平らげました。

    カレー腹のときにラーメンを食べるような“腹違い”のことをすると、

    ちょっと変な世界へ迷い込んでしまうのかもしれません。

     

    腹の言うことは聞いておくものです。

     

    あと本当、ね。山ちゃんと優ちゃんおめでとう!(知り合いか)


    Users who have LIKED this post:

    • avatar
  • 「ぶらぶら」の復権

    春へようこそ。

    新人、新しいひと。

    毎年フレッシュな顔ぶれが会社の雰囲気を明るくしてくれます。

    「若い」ということは一つの特権だと思います。

    たくさん学んで、たくさん成長してください。

    若さを年齢とみるのか、心のありようとみるのかは、自分次第。

    わたしも、学び、成長したいです。

     

    みなさんは、散歩は好きですか?

    ウォルター・ベンヤミンという社会学者が、

    その著書パサージュ論のなかで「遊歩者」について論じています。

    遊歩者、つまり、遊歩するひと。

    遊歩とは、平たく言うとぶらぶらと歩くひとのことです。

     

    遊歩者と同時に生まれたものに、「ウィンドーショッピング」があります。

    令和より昭和よりずっとずっと昔、

    それまでは、街を横断する通りに並ぶさまざまな店先で、

    品定めのために、あるいは暇つぶしのために、

    ウィンドーの外から店の品物をただ眺めるひとは存在しませんでした。

    0人です。たった一人もいませんでした。

    みんな、その日暮らしの生活に追われ、忙しかったからです。

    昔は、身分によって職業が決まっていましたから、

    時間を持て余しているのは貴族階級くらいで、

    商人や農民からなるいわゆる平民階級は一日中やるべきタスクが詰まっており、

    ウィンドーショッピングなんて不可能だったのです。

    大きな革命が起き、身分によって職業が規定されなくなった時、

    人びとは街へ繰り出し、路地には、目的もなくぶらぶらするひとが出現しました。

    それが、遊歩者です。

     

    なぜ、新年度の初回のコピペで、いきなり遊歩者のことを言い始めたのか。

    なんとなくぶらつきたい、春だからかもしれません。

    スマートフォンが普及してから

    「停止者」が明らかに増えたなぁと、感じたからかもしれません。

     

    ベンヤミンが論じた遊歩者は、

    まるで夢のなかへ迷い込むように、都市という現実をさまよっていました。

    遊歩者にとって、都市には夢があふれていました。

    美しいドレス、すてきな靴、見事な装丁の本などなど。

    それらを夢見心地で眺め、値段を見やり、ふぅとため息をつく。

    物語の生まれる優雅な時間の流れがありました。

    しかし、デジタル革命以後、路地に登場した「停止者」は、

    現実の都市を歩きながら、スマートフォンのなかの仮想空間へ入り込んでいます。

    地図アプリで表示されるビルの名前と、目の前にそびえるビルの名前が異なる時、

    私たちはなすすべもなく立ち止まり、こうつぶやくのではないでしょうか。

    「いったい、どちらが“本当の現実”なのか?」と。

     

    今、ひとは道のいたるところで立ち止まっています。

    物思いにふけってふと歩みをとめる、なら詩的に聞こえますが、

    その実、人びとは光る小さな画面をのぞきこんでいます。

    詩情、特になし。

    目的地がスマートフォンのなかにあり、

    現実がそれを追随する逆転の関係になったからです。

    そこでは、厄介な新種も現れました。

    「ながら者」です。

    彼らはスマートフォンに没入し、心理的には仮想空間にいながら

    現実に身を置いているため、よくよく現実の“物体”と衝突します。

    わたしもよく、目の前を立ちふさがれます。

    ながら者にとっては、車もひともただの記号です。

    スマートフォン上のピクトグラムのように、

    表面的なシンボルだと認識されています。

    停止者とながら者で渋滞し、事故が多発する路地。

    ある意味では、ストリートは昔より物騒になったのかもしれません。

     

    スマートフォンに生きた桜の姿を移そうとしても、

    そこにはただ、切り取られたピクセルが残るだけです。

    「季節を感じること」がトピックになるのも、

    それだけ季節を感じる瞬間が少ないということの裏返しなのでしょう。

    だからわたしは、桜餅をたくさん食べるわけです。

    季節を感じたいなら、まず体内から。

    お団子でも食べ歩きながら、街をぶらつき、遊歩者の復権をめざしたいと思います。

    あ、わたしは令和より「健康」という文字を推したいです。

    よろこびもかなしみも、健やかなればこそ。


    Users who have LIKED this post:

    • avatar