#やばい #すごい #現代アート
最近、美術展に行くと、セルフィーする姿をよく見かけます。
六本木の森美術館に『塩田千春展』を観に行ったときのこと。
場所柄もあり、外国人観光客がたくさんいました。
展覧会は、写真可の展示スペースがたくさんあり、
外国人観光客も、もちろん日本人も、思い思い写真を撮っていたのですが、
わたしがある展示スペースで、
真っ黒に燃やされたピアノのオブジェを見ていると、
スレンダーな中国人女性が、そのピアノの後ろで立ったかと思うと、
髪をかき上げて、めちゃくちゃポーズを「キメて」いました。
イメージ的には、セレブがレッドカーペットでポーズを取る、ああいう感じです。
それを高価そうなカメラでおさえる連れの中年男性。
年の離れた夫婦か、もしくは、
なんらかの利害関係のある男女(なんだそれは)だと思うのですが、
中国人女性は、もしかしたらモデルさんだったのかもしれません。
鑑賞する人にとって、アートは、
鑑賞するものから、「私を映えさせるもの」へ変わったのです。
拡散のためのツール。
いいねのための背景。
#ART #ピアノ #塩田千春 #真っ黒 #燃えてる
わたしも、塩田千春の圧倒的な美術作品を眺めながら、
それをスマホにおさめて、SNSにアップしました。
また、べつの展示スペースでは、
米津玄師似というか、RADWIMPS好きそうというか、
川谷絵音っぽいというかなんというか、まぁざっくり「今っぽい」男の子が、
張り巡らされた赤い糸のなかにうまい具合に立ち、
横を向いて顔を少し上向きにしてポーズを取り、
彼女らしき女性に写真を撮ってもらっていました。
#ART #赤い #糸 #横顔 #米津玄師 #RADWIMPS
「〇〇に行ってきた」ということをだれかに話すとき、
写真がないと、説明が不十分な気がする。
このうまく説明できないときに感じる不安のようなものは、
いったい何なのでしょう。
面と向かって話をするとき、
会話は、空気を伝わって届く音のつらなりです。
そこに視覚的な文字や写真は自動的には表示されません。
発信する側のわたしが「スレンダーな中国人女性」といったとき、
受信する側のあなたの「スレンダーな中国人女性」は、
いったいどんな女性像でしょうか?
像を結べない、イメージがない、という人もいるのではないかと思います。
わたしたちは、ツイートの枠や、
写真を追加することや絵文字が日常的すぎて、
それなしで「伝える」ことが難しくなってしまったのかもしれません。
何世紀も前、写真がこの世界に登場したとき、
被写体となる人は「魂がとられる」と本気で心配したそうです。
自分の似姿がそのまま別の機械をとおして現れることは、
ここにいる自分がいなくなる・減ってしまうように思ったのでしょう。
でも、それを無知だと笑うことは、わたしにはできないのです。
自分の思いや自分の姿といったものは拡散できますが、
多くの目に晒されることで、むしろ、
自分というものが拡大するよりもバラバラになり、
充実するよりも中心が空っぽになっていくような感覚は、
過去の人々が感じた「魂がとられる」という恐れと、
どこかつながっていると思うのです。
すっかり秋ですね。
今月は、会社からもほど近い三菱一号館美術館へ行こうと思います。