「エプロン談義」

そろそろ、梅雨明けでしょうか。

それはそうと、先月、こんなニュース記事が目に飛び込んできました。

 

「有害な」男女のステレオタイプ描く広告、イギリスで禁止

 

内容としては、

 

イギリスの広告基準協議会(ASA)はこのほど、「深刻もしくは広範な被害」につながる可能性のある「性別にもとづく有害なステレオタイプ(世間的固定概念)」を使った広告を禁止した。一部のステレオタイプに基づく表現が、「人の可能性を狭める」一端を担いかねないとしている。

ASAの決定に伴い、イギリス国内の広告では今後、男性がくつろぐ間に女性が掃除していたり、男性がおむつ替えに失敗したりするなどのシナリオは使えなくなる。

 

というものでした。

続きます。

 

このほか、新規制で「有害」と認定される可能性のある描写には以下のようなものがある。

  • 男性が赤ちゃんのおむつ替えに失敗したり、女性が駐車に失敗するなど、性別が原因で特定のタスクに失敗する描写

  • 出産したばかりの母親に、心の健康よりも、外見をきれいに整えたり家事をきちんとする方が大事だと示唆する描写

  • 従来のステレオタイプで女性の役割とされてきた活動に従事している男性を軽んじる描写

 

わたしは、イギリスでのこうした動きに対して、いいなと思いました。

広告は、商品を広告します。

同時に、その商品が「だれの手に届いてほしいか」も表現している。

表現した以上、その表現を積極的・主体的に選択していると見なされます。

この広告は、「有害」な世間的ステレオタイプを助長し固定するものではないか?

わたしは街でさまざまな広告を目にするたびに、自分に問いかけることが多くなりました。

そういう世間的ステレオタイプが嫌だから。

嫌なんです、肌感覚的に。

古くて、ダサいから。

 

例えば。

わたしは、ずっと「エプロン」が引っかかっているんです。

家事(食事の買い出し、料理の支度、洗濯、洗い物など)をするときに、

自分自身エプロンを着たことはこれまで1回あったかどうかなのですが、

みなさんはありますか?エプロン。

広告表現において、エプロンは「家事」の象徴ですよね。

わたしもわかるんです、家事をイメージしてるんだな、と。

でも、多くの家庭で、家事をする人はエプロン着ないんじゃないでしょうか。

 

自分の母のことを考えてみると、共働きで、エプロンは着ていませんでした。

そんな背中を見ていたからでしょうか。

洋服の前側を汚さないために着るエプロンはずっと遠い存在でした。

父ももちろん、エプロンなんて着ていませんでした。

 

でも、テレビや新聞、雑誌、インターネット、様々な表現があふれる場で

「エプロン」は家事をしている人の象徴で使われています。

もちろん、広告は「伝わる速さ」が重要なので、

「エプロン=家事」が今も瞬間的に伝わりやすいのでしょう。

 

エプロン、着ないけど。

ここなんですよね、わたしがなんとなく引っかかるのは。

朝起きてご飯もそこそこに家を出て、

仕事して、夜遅く家に帰って、エプロン着たいかな。

わたしは外で着ていたものぜんぶ脱ぎ捨てはしたいですが、

エプロンをわざわざその上から着たいとは思わないです。

ヒモむすぶのなんかも、面倒だし。

家では、一番楽なかっこうでいたいし。

でも、シロさんはじめ、エプロンして家事をする人ももちろんいますよね。

部屋着が汚れるのが嫌だから、エプロンを着るとテンション上がるから。

「心の余裕」「きちんとしている感じ」があるから。

うん、そういう人もいます。それはそれでよくて。

エプロンを悪者にしてエプロン反対!ってしたいわけじゃないんです。

でも、じゃあ、家事にまつわるAという商品の広告においては、

エプロン着る女性、エプロン着る男性、エプロンを着ない女性、エプロンを着ない男性、

エプロンを着る犬、エプロンを着るネコ、エプロンを着る◯◯……。

この中のどのイメージをどういう理由で選択して、なにをメッセージとして表現するのか。

そういうことをみんなで共有して考えた上で、

「今回はエプロンありの女性でいきましょう」ってなってほしくないですか?

わたしは、なってほしいんですよね。

 

広告が「表現」するとき、

そこにステレオタイプがあるのか、ないのか、

あるとしたらそれは今、どんな捉えられ方をしているのか、

そもそも自分はどう感じるのか、

クライアントのイメージはどこをめざしているのか、

そしてその目標はいまの時代にどう反応されるのか。

いちいち立ち止まって、「表現のその先」を考えることが大事だと思います。

 

わたしは、広告が、役割や世界観を固定化するものではなく、

可能性や自由を広げるものであってほしいと思うようになりました。

自分の考えや言葉が、だれかの可能性や自由を広げるものであったなら、

それ以上幸せなことはない気がします。

 

これまで普通だと思われていたことは、

もう普通じゃないかもしれなくて、

その移り変わりのスピードはどんどん早くなっている。

アプリのアップデートさえ日常的なのに、

人間が初期設定のままでうまくいくのでしょうか。

アップデートするかしないかは自由だとしても、

最新の状態がどんな状態かくらいは、気にしたほうがいいとわたしは思うのです。

みなさんは、どうですか?


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