• 鼻スピースピー族の回

    あーあ円安になっちゃったしユーロも戻しつつあるなー
    円高ユーロ安のときに海外逃亡しておけばよかった
    何してたんだろわたし・・・

     

    ・・・ヅカ観てました!

     

    問うまでもなかった。自問する意味なし。

     

    最近、映画を観たのですが、2回が2回とも、隣が男性だったんです。
    いや男性でいいんですけどね、世界の人口のざっと半分は男性なんだから。

     

    でもね、隣に座ったその男性Aと男性Bが両方とも
    「鼻スピースピー族」だったこの衝撃、あなたに伝わるでしょうか?

     

    説明しよう!
    「鼻スピースピー族」は、特に映画館など、
    暗くなり、視覚や聴覚などの器官を発達させる状況に置いて、
    突然その存在を主張してくる厄介な種族です。

     

    要は鼻づまりだろ。

     

    壮!鼻づまり鼻太郎な奴らなのです。

     

    わたしは映画館好きなんですよ。
    イスが大きくて、深々としていて、暗くなって、スクリーンがデカくて、
    しかも映画が観られるんですよ。最高の場所です。

     

    でも「鼻スピースピー族」は、そんなわたしの純粋な映画鑑賞を邪魔してくるわけです。
    「鼻スピースピー族」の最大の武器は「鼻息轟音攻撃」。

     

    ねぇどうしてそんなに鼻息を大きくできるの?
    その2つの洞穴から聞こえる空気の雄叫びは何をわたしに求めているの?

     

    なにも息をつめて見ろとは言いませんけどね。

     

    「スピーッ ヌフッ スピーッ ヌフッ」みたいなおまえの鼻息をSS席で聞くために
    映画見に来てるんじゃねえから覚えとけおたんこなすが(笑顔)

     

    と言いたくもなるってものです。

     

    映画館では上映前に、しゃべるなだの、前の座席を足でけるなだの、
    いろいろ注意が喚起されますが、あれね、
    ああいうふうに言うと言わないだと明らかに違うんですよ。

     

    わたしはよく「座席蹴球部」の部員が後ろの席に座ることがあってね、
    背中をよくガシガシ蹴られます。

     

    なんなの足長いのそうなんだよかったねちょっと表でろや。

     

    とケンカできないところが乙女のつらいところです。
    だから、最低限のマナーを守らせようとしたらあの注意喚起CMもやむをえないのです。

     

    映画館は見ず知らずの人間が集まった、いわばジャングルです。
    「鼻スピースピー族」「座席蹴球部」の他にも、
    「マシンガントークフレンズ」とかもいて惨憺たる場合っていうのもよくありますが、
    ともかく映画は観たほうがいいです。

     

    「鼻スピースピー族」「座席蹴球部」に囲まれて絶体絶命の状況下でも
    脳みそが痛くなるくらいわたしは泣いたので、『レミゼラブル』は観たほうがいいです。

     

    でもちょうどアン=ハサウェイの「夢やぶれて」のところで
    「鼻スピースピー族」が絶好調に「スピーッ ヌフッ スピーッ ヌフッ」状態だったんだよね~。

    ほんと優雅に映画を観る夢やぶれたわ!

     

    映画も出会うものなので、アンハサウェイとの最高の出会いの記憶に
    「スピーッ ヌフッ スピーッ ヌフッ」も同時に刻まれてしまって、
    思い出すたびに暗がりで聞こえてくる「スピーッ ヌフッ スピーッ ヌフッ」と、
    もうやめてーーーーーーーという苦い味が胸にこみあげてきて
    ああ無情。

    今年はどうか席運にめぐまれる年でありますよーーーーうーーーにーーーーー♪

  • 謹賀新パーラーの回

    みなさま、あけましておめでとうございます。
    A HEBI NEW YEAR!にょろ~にょろにょろ~!

    年賀状をいただいたみなさま、ありがとうございました。
    この場を借りて、厚くお礼申し上げます。

     

    わたしからの返事は寒中忘れた頃に届・・・かないと思います。
    不義理で申し訳ないことです。

     

    さて、2013年も幕を開けました。
    旧年中はマヤ暦に踊らされて少しデスクの上を掃除などもしてしまいましたが、
    結局滅びずに地球続行ということで、わたしのデスクも平和な日常を取り戻しました。
    本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

     

    「お正月」となると金銭感覚も鈍り大盤振る舞いしたくなるようで、
    普段なら絶対手を出さないようなやけに高価な食物を
    「縁起物」「初物」だと笑いながら豪快に買いもすれば、
    新春セール売り場の高揚感と「30,000円→18,900円」を安いと思わされる
    デパートの術中にハマり、また値下がったタグを見つめすぎて目がぼやけたのか、
    「ハヤシライス3,100円」でも食べようというものです。

     

    そう。

     

    生まれて初めて資生堂パーラーで自分のお金で「ハヤシライス3,100円」をいただきました。

     

    はーっはっはっはっはっは、そんなもの「高価」のうちに入らないよチミ、
    という豪放磊落なお方がいらっしゃいましたら、今度是非ランチをご一緒させてください。
    あなたのお財布と・・・今宵一夜・・・。

     

    はい。
    はたして、「ハヤシライス3,100円」はおいしいのか?

     

    一緒に食べた姉の一言。

     

    「そんなにハヤシライスを食べたことがないからおいしいのかよくわかんない」

     

    言い得て妙!!!!!
    そうなんですよね~ハヤシライスってこの前いつ食べたっけ?
    え、高校生以来?給食?うそ?ってくらいの頻度でしか
    お目見目しないタイプの食べ物なんですビューティー的に。

     

    なので正直美味しいのかどうか・・・そもそも
    「ハヤシライス」が「カレーライス」よりおいしいのかどうか問題も、わたし内では解決していない!

    悶々とそして黙々とスプーンを口に運びながら、

     

    妹「・・・うん、でも、おいしくない?」
    姉「うん、なんかおいしいかも」
    妹「ね、そうだよね、なんかおいしいよね」
    姉「おいしいおいしい!」

     

    という急激な会話の流れで「ハヤシライス3,100円」はおいしいという結論で
    ファイナルアンサーいたしました。

     

    一流店の常として、「付け合せさえも・・・!」という特徴があります。
    ハヤシライスについてきた小皿の付け合せがまたおいしくてねぇ。
    みかんの缶詰のみかんもあって、姉と壮絶なみかんの取り合いを繰り広げました。
    が、そこは優しく大人な妹が姉に譲るというほっこりエピソードで完。

     

    そして、姉が頼んだ「オムライス2,400円」もまた、おいしかったです。
    資生堂パーラーのオムライスは、卵の3D感と言うのか王様感というか、
    チキンライスをその圧倒的な包容力で包んでいる頼れる男感に感動すら覚えました。
    まるでアンドレのよう・・・!
    あとね、一つだけ言えるのは、レプリカみたい(笑)。

     

    なんでしょう。
    そのオムライスはあまりにも卵が肉厚で完璧な形状を保っており、
    そこに1ミリの誤謬なども見当たらないため、触れることも許されないような禁忌の雰囲気。
    だから現実感が薄いのです。
    そこに圧倒的な存在感で存在しているのにもかかわらず、
    白いお皿に「みんなのあこがれのおむらいす」として
    結晶化され形状記憶され投影された夢だとしか思えず、
    どうしてもそれをリアルオムライスとして感じられない、そんなオムライスでした。

     

    ・・・ペロッと完食いたしましたがね!!!!!!!

     

    正月三が日の資生堂パーラーには、
    「ハヤシライス3,100円」にもびくともしなそうな紳士淑女が静かに談笑していました。
    値段を確認しないでお店に入れるような階層の方たちですかね。

     

    わたしと姉も、暮れていく銀座の一角で他愛のない話などをして大笑いし、
    お会計にときに「んぐ・・・・・・」と小さく喉を鳴らして店を後にしました。

    心なしか、大通りに吹きすさぶ風が冷たかったです。

  • もういくつ寝ると新年の回

    もう冬ですね。
    すっかり冬です。
    寒いですよ。

     

    最近エレベーターでADさんに会い、

     

    「寒いですね」
    「そうですね~」
    「・・・宝塚はアツいですか?」
    「宝塚は・・・アツいです!!!!!」
    「そうですか・・・」

     

    という和気あいあいとした会話を繰り広げました❤
    壮!宝塚はいつもアツいのです!

     

    もうすぐクリスマスですね。
    日本におけるクリスマス商戦の熱気は異常ですが、
    ついついのせられてプレゼント買ったりケーキを買ったりしてしまうからこそ
    経済が回っているだなとか正当化しています。

     

    今年は何組のDVDにしようかしら❤

     

    子供の頃、サンタへ手紙を書きました。
    「サンタさんへ」からはじまる文章。

     

    「○○がほしいです、おねがいします」
    これだけ。

    サンタもよくこんな稚拙な文章でプレゼントする気になってくれるものです。
    わたしもちゃんとサンタを信じていたので、
    12月24日は、2階の寝室をそわそわしながらうかがっていました。
    母に「寝てからくるのよ」と言われても、
    「なんか今2階で音がした!」と言って駆け出し、
    2階の寝室の電気をつけるときのドキドキ感は忘れられません。

     

    て、枕元になにもなかったのに、
    ちょっと・・・窓があいてる気がする!と思って、
    「サンタ一瞬立ち寄った説」をかたくなに信じようとしていた

     

    子供の頃のわたしったらKA・WA・I・I!

     

    だれも訪れていないのに気配があるって、
    今考えたらただの怖い話ですけど・・・

    で、翌朝。
    12月25日。

     

    目が覚めると、枕元にはちゃんとプレゼントがあったんです。
    スーファミのソフトかい!ってママサンタは思ったと思うんですが、
    わたしはもらったその日から飽きもせずひたすら、スーファミやってました。

     

    大人になってからも、
    やっぱり包装された自分あてのプレゼントはわくわくします。

     

    そうこうするうちに、お正月ですね。
    来年のことを言うと鬼に笑われてしまいますが、
    お正月はやっぱりねぇ、おもちに、おせちに、おぞうにに、
    考えただけでよだれがとまらないラインナップですよねぇ。

     

    お正月は、近所のおじいちゃんの家に親戚が集まっていたので、
    そこへ出かけていき、おじちゃんおばちゃんからお年玉をもらっていました。

     

    お年玉・・・。

     

    この頃から給与制度に慣れさせようといういわゆる経済教育なのでしょうか。
    あの、1年ごとに少しずつ加算されていく感じは毎月の給与に似た感覚があります。

     

    お年玉は概してポチ袋なので、小さいのです。
    その小さな袋のなかに、千円札が折りたたまれて入っている。
    小さな袋が窮屈そうにふくらんでいたら、
    もらう前からにやにやして、それはそれはかわいくない顔でしょう。

     

    ごくまれに、うっす!!!!!!と思わせておいて
    袋を開けたら「五千円キターーーーーーーー❤」という場合もあり、
    喜びもひとしおです。

     

    現金な子供ですいません円・・・。

     

    でも考えてみたら、そこまで親しくない子供たちにお金をあげるって、
    面白いならわしですよね。

     

    わたしの家族はそこまで親戚の付き合いが濃いほうではないのですが、
    お正月の席にあらわれる「親戚ではないけど親戚も同然のおじさん夫婦」にも、
    お年玉をもらったりすることがあって、お得だと思いつつ、
    太っ腹だなーとかちびまるこちゃんのように冷静に思ったりしていました。

     

    親戚のなかにいる父や母を見るのは、とても不思議でした。
    父方のおじいちゃんの家だったので、
    父はそこでは、「息子」であり、「兄」であり、「弟」でした。
    聞きなれないあだ名で呼ばれる父の、お酒で赤らんだ顔を見て、
    父にも育ってきた家族があるのだと、当たり前のことになんだか感動した覚えがあります。

     

    とにかくいろんな料理が出てきて、たくさん食べて、
    最後はだいたいうどんを食べていました。

     

    だからおばちゃんが「うどん、やろうかね」というと、
    それはもうおひらきの合図だったので、わたしはちょっとさびしかった。

     

    うどんはとてもコシがあって、おいしくて、ちょっとせつない味でした。

     

    たばこの煙と、空のジョッキと、喧騒と、大人たちの笑い声。
    楽しそうで、でも子供は入れなくて。
    あのとき、あのこたつのあるあの部屋が、世界のすべてのような気がして、
    世界を外側からながめているようでした。

     

    帰り道、酔いのまわった父に「たくさん食べたか?」と聞かれ、
    「うん」と答えたときの、ちょっと大人になったような感覚はなんだったのかなと思いますが・・・

    今はもう、あんなに大勢の親戚で集まることはありませんが、
    お酒も飲めるこの年で、あの場所にいたらどうなるのかなぁと、ぼんやり考えています。

     

    今年もあとわずか。
    後悔しないように、今しか観られない宝塚を観ることにします☆

  • 生きてるものはいないの回

    みなさんお久しぶりです。

     

    都知事がやめたり、
    宝塚で「戦国BASARA」舞台化が決まったり、
    体重が純増していたり、
    季節の移り変わりとともにたくさんのことがありました。

     

    突然ですが、わたし
    ゾンビとかゾンビ映画とか
    幽霊とかホラー映画とか
    はてはお化け屋敷とか怖い話とか
    そういう一切のものを遮断して生きてます。

     

    怖いから。

     

    いったいなにが楽しくて
    すすんで怖い思いをしなきゃいけないんでしょうか。
    みんな頭ちょっとおかしいですね。
    よっぽどMなんですね。
    それに気づいてないんですね。

     

    「そういえば昔ね・・・」って
    こっちが怖いって言ってんのに右から左へ華麗にスルーして
    怖い話をしだす輩を散見しますがホントやめてください。
    「怖くないから」っていう枕詞で始まった話が怖くなかったためしないです。

    このトレースするのにゾンビ画像検索したくなくて
    ムンク画像の検索だけにとどまったわたしの気持ちを考えてくださいね。
    (でもムンク画像の怖さも大概だった件)

     

    怖い話を意気揚々とする人間が怖い。(会社員・女)

     

    でもね、こないだ翻訳者に惹かれてある小説を買ってしまって、
    それをなんとはなしに読みはじめたら、
    ゾンビが出てきちゃったんですよね。

    聞いてないよ!(白目)

     

    こりゃまずいと思って、読みさそうかと思ったんですが、
    おもしろいから読むのをとめられなくて、終いまで読んでしまいました。
    話の途中ですが、この、「○○○(白目)」っていう表現、
    面白いですよね。完全にマンガ的な表現。
    『ベルサイユのばら』などの少女マンガに見られる
    目が描かれていないあの表情がルーツじゃないかと思うんですが。
    ちなみに来年、99周年を迎える宝塚では、
    満を持して『ベルサイユのばら』の上演が決定しています。
    ベルばらを笑う者、ベルばらに泣く!
    ぜひ一度はごらんなさい♪ ごらんなさい♪ ベルサイユの・ばら♪

     

    話に戻りますと、言っておきますがわたしは、
    愛する宝塚の舞台で「幽霊」に類するものが出てくるだけで
    内心ちょっとひやっとする極度のビビりなわけですね、
    だからゾンビ小説なんて死んでも読みたくないわけですね。

     

    なのに読んじゃいました。

     

    で。

     

    これまですべての「怖いもの」がものすごく怖い気がしてたんですけど、
    ゾンビだけは大丈夫な気がしてきました。

     

    べつにその小説がコミカルだったから、とか
    小説のなかのゾンビがまぬけだったから、とか
    そういうんじゃないんです。

     

    わたしが遠巻きながら知っている「ゾンビ的なもの」そのものだったし、
    だから不気味で、実際にいたら超怖いと思うし、
    映画とかで絶対観たくないんですけど、
    不思議なことにその小説のなかに出てくる「ゾンビ」は、大丈夫だった。

     

    だから、読み終えたあとちょっと好きになってました。
    なんだそれ。

     

    少し、その小説の話をしましょう。
    おそらくアメリカ、ある郊外のコンビニを営業してる青年と、その友人がいます。
    2人は年が離れている。
    ある女の人がいて、その人は犬の保健所につとめている。
    コンビニの前を通りかかるときに、犬を乗せているんですが、
    その犬の運命はもう決まってしまっている。

     

    主要な人物はこの3人だけです。

     

    コンビニは、ある裂け目の近くにあり、そこからゾンビが這い出してくる。
    ゾンビはコンビニで買い物をします。

     

    そんな話。

     

    わたしの浅薄なゾンビ知識では、
    ゾンビの風貌といえば『スリラー』のゾンビしかと思い浮かびませんが
    たぶんああいう感じで合ってると思います。

     

    よく「B級映画」というくくりのなかにゾンビ映画はランクインされます。
    ただれた皮膚や原型をなくした顔は、ともすると
    ハロウィーンの仮装くらいのパンチ力しかないのかもしれません。

     

    「あのドンキに売ってるやつ」みたいな。

    だから可笑しみがあって、愛らしいと感じることももしかしたらあるのかもしれない。
    テレビから出てくる貞子よりはずっと愛嬌があるのかもしれない。

     

    でもね、スリラーのPVさえわたしはちょっと夜中観たくないんですよ。
    これほんとに。

     

    なのにゾンビ小説を読むことになるとは思いませんでした。

     

    この小説のなかでわたしがいちばん怖かったのは、
    むしろ「パジャマ」の描写でした。
    コンビニの実質的なオーナーである青年は、
    売り物であるパジャマを着て店に立つのですが、
    そのパジャマの描写の恐ろしさったらなかったです。
    小説だけが表現できる、視覚的な怖さ。

     

    作家の多和田葉子氏の言葉を借りれば、「魔は細部に宿る」ということ。
    パジャマを描写する言葉の細部に、墓石のように冷たい手触りがしました。
    体温を奪われて、それこそ自分がゾンビになってしまうようなあの世の感触・・・。

     

    SF小説だと思って読み始めたらとんだゾンビ小説だったわけですが、
    チキンハートなわたしでもじゅうぶん読めた本ですので、
    読書の秋にゾンビってみてはいかがでしょうか。

     

    『マジック・フォー・ビギナーズ』
    ケリー・リンク (著)
    柴田元幸(翻訳)

  • 宝塚なうの回

    日本全国の宝塚ファンの中で、この方の訃報を聞いて
    その場で崩れ落ちなかった人は恐らくいないでしょう。

     

    「白バラの君」「永遠の二枚目」と謳われた
    春日野八千代様ご逝去・・・・・・!!!!!!!!!!

     

    現人神と思われていた最年長タカラジャンヌ(17期生)が、
    この度鬼籍に入られました。
    ちなみに、今年音楽学校に入学してきた子たちが100期生です。

     

    まだ、うまく言葉が見つかりませんが、
    生きる伝説だった「よっちゃん(春日野八千代先生の愛称)」が
    現実からいなくなってしまうなんて、
    ヅカファンの誰一人としてそんなこと夢にも思っていませんでした。

     

    だって、来る100周年に、
    大階段の0番(トップスターが最後に立って一番まぶしいスポットライトを浴びる場所)に
    よっちゃんが立ってくれるって、トップオブトップとして不死鳥のように
    あの祝祭空間に登場してくれるって信じてたから・・・。

     

    謹んで、ご冥福をお祈りします。

     

    と、いつになく神妙な雰囲気のなか始まりましたが、
    話は変わりますよ。

    この間ね、現役女子大生がツイッターに関してこんなことを話してました。

     

    ・・・この間さー、寝坊しちゃって、それツイートしたのね。

    そしたら、○○と、授業一緒になったときにね、
    『寝坊しちゃったんだねーツイッター見たょー』って言われたの。
    で、え?ってなってー。あれ?フォローとかしてたっけ?って言ったら、
    『ううん、リストに入れて読んでるのー』って言われて超ひいたよー。
    ってかマジ怖くない?リストに入れて読んでるとかさー。
    『なんだーフォローしてよー』とか言ったけどさ~
    マジ怖いマジ怖いって思った~フォローとかマジ勘弁~
    ぎゃははははは・・・(了)

     

    という「自分をフォローしてないのにリストにして読んでるそこまで親しくない知り合いマジ怖い」
    という生々しい話を耳にして、とても興味深かったです。

     

    まぁでも、
    「フォローもしてないしリストにも入れてないけど今たまたま隣の席で全部話を聞いてる女」も
    本人は気づいてないからまだ笑って話してるけど、気づいたら相当怖いとは思いますが!
    わたしのことですが!

     

    今はツイッターもフェイスブックも当然のように使っていますが、
    わたしが「友達」や「親友」や「同級生」という言葉に敏感だった思春期は、
    まだ携帯(mova)の3和音にみんな「すご~い❤」と感動していた
    携帯縄文時代みたいな時だったので、
    「リアルタイム」という共時性は、肌感覚として薄かった。

     

    電話やメールをしなければ、その人がどうしているかなんて知りえなかったし、
    また、だれがなにをしていようが特に何も思わなかった。
    だから、わたしその場にいなかった!(涙)みたいなことも、
    まぁ知らぬが仏。後から話を聞いて「ふぅん」で済んだ。

     

    でも、今はまったく違う。
    「なんでわたしは蘭寿さんの誕生日に劇場にいなかったのか・・・わたしの馬鹿っ!!!!」
    ×24時間×1か月間後悔し続ける、なんてZARA。ほんとザラ。

     

    みんながみんなとつながり、みんながみんなの行動をタイムラインにさらし、
    何組の、何という演目の、どこの場面の、だれに目を奪われたかは瞬間的に共有される。

     

    ツイッターで面白いと思うのは、みんなとにかく「リアルタイムを記述する」ということ。
    自分が今何をしているのか、何を見ているのか、だれと会っているのか、
    3和音の携帯しか持っていなかった頃では考えられなかった情報共有。

     

    自分がしていること、見たこと、会った人について、
    どうしても発言し、言い残しておきたくなるような焦燥感。
    ツイッターで言っておけなければ、自分が感じたことが消えてしまうんじゃないか、
    体験したものが嘘になってしまうんじゃないか、そんな思い。
    一体何なんでしょうね、あれ。
    ツイッターで「静か」だと、生きてないんじゃないかと疑われるっていうのは(笑)。

     

    不思議な感覚を抱きながら、スマホの画面をスクロールする毎日。

     

    主にヅカですが。

     

    わたしがもし高校生だったら、こういう精神状況を強いられる毎日って、
    どうなんだろうなぁとぼんやり考えます。
    宝塚にハマっている今でこそ、いろんな年代のファンの方と知り合えて、
    いろんな縁があり、ツイッターをやってておもしろいなと思いますが、
    高校生とか中学生の子たちもそうなんだろうか。

     

    ツイッター以前の、だれかの情報を「共有しない」ことを普通とする感覚というのか、
    「共有し合わない」世界というのは、過去のものになってしまった。
    そういうものは少しずつ、目に見えない形で摩耗されていき、消滅してしまうんでしょうか。

     

    ツイッターは同族が集いやすいメディアなので、
    その仲間意識、連帯感はとても濃密です。
    「ハマる」のが恐ろしく速まります。
    加速度的にのめりこんでゆき、チケットを追加し、
    オスプレイが出す瞬間最高速度より速くお金が無くなります☆

    とても、奇妙な感じがします。
    宝塚と出会ったのは、必然だったかもしれませんが、
    ツイッターがなければ知りえなかった宝塚のまた別の側面がある。

     

    そこは広大な黒い森のような場所で、
    分け入ったら最後、道を尋ねる人がすべてヅカオタなため、
    一緒に迷うハメに陥り、時折美しいフェアリー(ジェンヌ)と偶然出会って
    目が合った!ねぇ今こっち見たよね!?ヤバい呼吸できないヒイィ・・・!と始めたりなんかしたら
    もはや断末魔の叫びとともに永遠にその森から抜け出せません。
    そして、そんな夢を見ている間に現実では、数多くの諭吉さんたちが
    ダルマ(宝塚で男役・娘役がレオタード姿で小羽根を背負い美脚を披露する姿)に変身し、
    お財布という名の銀橋からどんどんハケていなくなってしまうという。。。

    でもダルマって目が離せなくて困るんだよねー(他人事)。

     

    100年この日本に息づいてきた麗しく妖しい悪夢は、
    獲物をとらえたらそう簡単には離しちゃくれません。

     

    まぁ、自ら進んで食われにいっちゃってる感満載ですが。
    わたしのことですが。

     

    みなさんには、そんな魔物がそばにいらっしゃるでしょうか?
    そのために破産してしまいそうな、
    そのためにすべてを失くしてしまいそうな何かが。

     

    そばにいたところで、破産するだけですけどね☆
    さーて秋の夜長に蘭寿ファントムの千秋楽映像でも観るか・・・(重症)。