「ジョナサンズ」の回

あなたはなにかを「解散」したことがありますか?

 

以前、父親から「解散!」と告げられて
家族が解散した芸人の本が大ヒットしましたが、
わたし自身はなにかを解散したことはありません。

 

“国民的グループ”は年内の解散を発表しました。
「解散」という字から受ける衝撃はまことに強いものです。

 

内閣が解散したり、衆議院が解散すれば、それに伴う形で選挙がある。
でも、最も大き関心をあつめている今回の「解散」には、
そのあとの選挙がない。
日本人は概して「解散」に弱いのだと思います。

(今回はトレースではなく写真を見ながら描いてみました。)

同じような意味合いで「卒業」もありますが、
昨今の「卒業」というのは母体はまだ現存しており、
メンバーだけが新陳代謝していくようなことが多いため、
その母体を愛している人間にとっては
メンバーの卒業はつらくとも、
思いを寄せる対象が依然として残るので傷は浅いような気がします。

 

「解散」
なかなかどうして、寂しい気持ちにさせられる言葉です。

 

冒頭の質問に戻りますが、
わたしはなにかを「解散」したことはありません。

 

ただ、よく思い返してみると、似たようなことはありました。

 

中学生の頃、ことあるごとに
「ジョナサン」というファミレスに集まっていた女子グループ。
わたしも、そのグループのメンバーの一人でした。

 

今でこそ、人が何かしらの様々なグループに属することは普通になりました。
SNSなどでのネットワーク上で同じ趣味の人とつながったり、
同じミュージシャンを好きなもの同士でつながったり、
好きなゲームをするもの同士でつながったり。
でも、このように「つながる」ことが容易になるもっと前、
インターネットの海にまだ放たれていなかった
中学生もまた、自分たちをグループ化して名づけ、
カテゴライズすることで仲良し度を確かめるようなことがあったのです。

 

わたしの属していたグループ名は、その名も「ジョナサンズ」。
ジョナサンで集まっていたから、ジョナサンズですね。
ひねりもなにもなくてここに載せることも黒歴史を公開するようで恥ずかしいですが、
ジョナサンズだったのです。

 

ジョナサンズは、女子5人ほどのグループでした。
活動内容(!)はもはや忘却の彼方なのですが、
ただ集まって、しゃべって、クラスの噂話などをするだけだった気がします。
それこそ国民的アイドルグループで誰がいちばん好きか、
というような話題で盛り上がったかもしれない。
それに、もしかしたらクラスの「出し物」みたいなものを
主導したりしたのかもしれませんが、まったく憶えていません。
何もやっていなかったのだと思います。

 

そして、高校生になり、自然と「解散」しました。
解散理由は音楽性の違い、価値観の相違など、
まぁひと言で言うと…特になかったと思います。
それぞれ別の高校へ進学することになり、
「ジョナサンズ」である必要がなくなったんですね。
そりゃそうですよね。

 

中学卒業後、
「久しぶりにジョナサンズで会おうよ」というお誘いも幾度かあったような気がしますが、
顔を出すことはありませんでした。

 

個別で誰かと会ったような記憶もあります。
でも、新興宗教の名前をぽろっと出されたり、
結婚して早くに子どもができて夫は…など
久しぶりに会って聞く話題としては気が重く、
それからは誰とも会わなくなりました。

 

人は、永遠になにかのグループにいる、
ということはできないように思います。
その時をとどめておきたいとグループを作っても、
時の流れは残酷なもので、人も、心も、関係も絶えず変化していく。
どこか歯車が錆びつき、うまく回らなくなっていく。
それぞれの人生がいろいろな意味で複雑化するうち、
純粋に「懐かしいから」という理由だけでは会いづらくなっていくのです。

 

わたしも、そういうふうに考えるような年になったのです。

 

そう思うと「解散」はむしろ、必然的な営みなのでしょう。
グループであったその時間をかけがえのないものにするために、
それをいつか一人で懐かしむことができるように、
わたしたちはいずれ「解散」しなければならないのかもしれません。