赤毛のイメージ

今年も残すところあと数日。

わたしの2018年を漢字一字で表すなら、今年は「変」。

コピペの大幅リニューアルもあり、さまざまな変化があった年でした。

みなさんの一年はどんな年だったでしょうか。

 

最近まで読んでいた本に、赤毛の女の子が出てきました。

主人公の一人です。

読み進めてしばらく経ったとき、

たまたまテレビでモンゴメリの『赤毛のアン』の特集をしていて、

ハッとしました。

 

あの、赤毛の女の子は「アン」のオマージュなのだ、と。

それまでまったく気がつきませんでした。

 

何を隠そう、わたしは『赤毛のアン』を読んだことがなかったのです。

 

わたしが読んでいた本は、19世紀のイギリスが舞台でした。

イギリス、赤毛の女の子、と言えば『赤毛のアン』しかありません。

日本、竹、女の子、とくれば「かぐや姫」のように。

でも、自分の読書体験にないために、

赤毛とアンの間にシナプスはついに生まれず、

本家のモンゴメリから遠回しにちゃんと読んどき〜とツッコまれた感覚です。

 

有史以来、人間は物語をそれこそ星の数ほど生み出してきました。

誰もが知る古典、それらはすべての基礎になっています。

わたしたちが目にするすべての表現、

新しいとされるものは歴史の大きなうねりのはざまに存在し、

絶えず過去との比較において「新しさ」を獲得します。

新作は、いつも名作の子どもたちなのです。

もちろん、子が親を超えることがあるように、

ときに新作が名作を凌駕し、新たな名作になることもあるでしょう。

それでも、人間も、物語も、

地球に生命が誕生した時からの歴史を地肉にして今を生きているのです。

 

先日、高校時代の友人と話していて、彼女に、

 

「小説も映画ももういいものはたくさんあるのに、

なぜみんなどんどん作ろうとするんだろう?」

 

と、難題を投げかけられました。

 

わたしは、昔、父親から聞いた話を思い出しながら、

テーマにする世界が広がっていくからではないか、と答えました。

 

テーブルを想像してください。

どんなテーブルでもいいです。

右にコップがあり、左にお皿が置いてあるとします。

アリストテレスが、お皿がお皿であることについて、

これ以上はないというある結論を導き出したとします。

カントは、コップがコップであることについて、

彼のほかには到達しえなかっただろう深い哲学的考察にたどり着いたとします。

テーブル全体については、ニーチェが。

でも、たとえば、テーブルの色については? まだ、考える余地があるかもしれない。

テーブルの材質については? まだ、豊かな論が展開できるかもしれない。

 

時代とともに、

何をテーマにするのか、何を問題とするのか、が変わり、

その対象が広がっていくのだとしたら、

なにかを考える・なにかを作る、ということは永遠に終わらないと思うのです。

 

だから、広告やデザインやコピーライティングにおいても、きっと同じです。

自分がたたかおうとする現場において、その成り立ちを知り、

これまでの歴史を知ることは、「新しい」ものを作るために必要なこと。

学者のようにはできなくても、広くて深い視座を持ちたいなと思う年末です。

 

みなさま、来年もどうぞよろしくお願いします。