ばかばかしいもの

バスター・キートンという喜劇役者をご存知でしょうか。
チャップリンと同じ二十世紀に生きた、もう一人の喜劇役者です。
人は、彼の無愛想を指して「笑わない喜劇役者」と呼びました。

 

いま、日本には「芸人」と呼ばれる人たちがそれはもうたくさんいて、
テレビで彼らを見ない日はありません。
彼らはよく笑い、観客や視聴者たちを大いに笑わせる。
「笑える/笑えない」は一つのモノサシとして機能しています。
私たちは、笑えるもの=善、笑えないもの=悪として、
笑えないものをすぐに遠ざけようとすることがあります。
笑えないものは、深刻であったり、残酷であったりして「しんどい」からです。
たとえば、日本のメディアで芸人が政治ネタを披露すると、
とたんに「政治的だ」と批判されます。
この「政治的だ」とはいったいどんな批判なのでしょうか。
おそらく、芸人は芸をする人間なのだから、余計なことをするな、ということなんです。
楽しませてくれればいいのに、エンタメにめんどくさい思想を持ち込むな、という。

 

ところが、芸人の系譜につらなる「道化師」の歴史を見るとすこし様子がちがいます。
シェイクスピアの作品に出てくる「道化師」は、権力者に囲われ、権力者を慰める役回り。
でいながら、ときに鋭い毒を吐きます。
彼らは、権力構造のはみ出しもの。身分もないかわりに、自由なのです。
自由なことばには、発見があります。みんなの無意識にあったものを気づかせるのです。
だから為政者も、道化師の無礼な進言には耳を傾ける。
いまよりもずっと、「自由に発言する」ことが難しかった時代。
世の中への不平や不満、ふだん口にできないことを口にする道化師が必要でした。
人びとは、彼らの権力を恐れぬふてぶてしさや、軽妙な毒舌に救われていたのです。

 

いかなることばも、いかなるデザインも、社会と関わりがあります。
わたしは、すべての表現は、ある意味で「政治的」であることをまぬがれないと思います。
極端に言えば、わたしが、宝塚が好きだと話すことも、政治的な態度と言えます。
「え、なにそれ、こわい」とあなたは思うでしょうか。
でも、政治なんてものは、あなたが考えるより、ずっと平凡なものです。
それこそ、日々のランチで話しちゃうような、昨日のVS嵐見た?みたいなことなんです。

 

そうそう、嵐が活動休止というニュースが流れたときは、
いよいよ元号が変わるんだな…と実感しました。
さびしいですね。でも5人はみんないい年の大人ですから、きっと大丈夫です。

 

落ち込んでいるかもしれない人たちのために、
「ばかばかしいもの」の話をします。

 

先日、わたしはSNSで「#我が子の写真撮るの下手くそ選手権」というタグを見つけ、
見ず知らずのツイッタラーの下手くそな我が子の写真を見ました。
中にはぷっと吹き出してしまう“上手い”下手くそ写真もありましたが、
ほとんどは清々しいほど下手くそそのものでした。
夢中でスクロールし続けたのですが、
はっと我に返ったときには、30分以上が経過していました。

 

わたしはスマホをベッドに置き、目を閉じました。

 

エアポケットに落ちていった30分間。
いい感じでばかばかしいものには、参加性があるのです。
ばかばかしいものは、単に、ばかばかしいだけで、
「笑える=イケてる」「笑えない=イケてない」ような力関係は発生しません。
ばかばかしいか、否か。0か1です。
また時と場合により、ばかばかしくないほうがよかったりします。
ばかばかしいものは、空虚なもんです。
でも、それがいい。なにも生まないただの空白が、人を癒すこともあります。

 

だれにもリツイートされず、一つのいいねもつかない。
そもそもSNSに上がらない、自分だけが抱えるばかばかしさ。
わたしがおすすめしたいのは、
お風呂場で、シャンプーのついた髪でリーゼントを作る、です。
宝塚の男役をちゃんと意識します。
ただ、予想以上に時間がかかります。
トライする方は湯冷めに気をつけてくださいね!


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