「ぶらぶら」の復権

春へようこそ。

新人、新しいひと。

毎年フレッシュな顔ぶれが会社の雰囲気を明るくしてくれます。

「若い」ということは一つの特権だと思います。

たくさん学んで、たくさん成長してください。

若さを年齢とみるのか、心のありようとみるのかは、自分次第。

わたしも、学び、成長したいです。

 

みなさんは、散歩は好きですか?

ウォルター・ベンヤミンという社会学者が、

その著書パサージュ論のなかで「遊歩者」について論じています。

遊歩者、つまり、遊歩するひと。

遊歩とは、平たく言うとぶらぶらと歩くひとのことです。

 

遊歩者と同時に生まれたものに、「ウィンドーショッピング」があります。

令和より昭和よりずっとずっと昔、

それまでは、街を横断する通りに並ぶさまざまな店先で、

品定めのために、あるいは暇つぶしのために、

ウィンドーの外から店の品物をただ眺めるひとは存在しませんでした。

0人です。たった一人もいませんでした。

みんな、その日暮らしの生活に追われ、忙しかったからです。

昔は、身分によって職業が決まっていましたから、

時間を持て余しているのは貴族階級くらいで、

商人や農民からなるいわゆる平民階級は一日中やるべきタスクが詰まっており、

ウィンドーショッピングなんて不可能だったのです。

大きな革命が起き、身分によって職業が規定されなくなった時、

人びとは街へ繰り出し、路地には、目的もなくぶらぶらするひとが出現しました。

それが、遊歩者です。

 

なぜ、新年度の初回のコピペで、いきなり遊歩者のことを言い始めたのか。

なんとなくぶらつきたい、春だからかもしれません。

スマートフォンが普及してから

「停止者」が明らかに増えたなぁと、感じたからかもしれません。

 

ベンヤミンが論じた遊歩者は、

まるで夢のなかへ迷い込むように、都市という現実をさまよっていました。

遊歩者にとって、都市には夢があふれていました。

美しいドレス、すてきな靴、見事な装丁の本などなど。

それらを夢見心地で眺め、値段を見やり、ふぅとため息をつく。

物語の生まれる優雅な時間の流れがありました。

しかし、デジタル革命以後、路地に登場した「停止者」は、

現実の都市を歩きながら、スマートフォンのなかの仮想空間へ入り込んでいます。

地図アプリで表示されるビルの名前と、目の前にそびえるビルの名前が異なる時、

私たちはなすすべもなく立ち止まり、こうつぶやくのではないでしょうか。

「いったい、どちらが“本当の現実”なのか?」と。

 

今、ひとは道のいたるところで立ち止まっています。

物思いにふけってふと歩みをとめる、なら詩的に聞こえますが、

その実、人びとは光る小さな画面をのぞきこんでいます。

詩情、特になし。

目的地がスマートフォンのなかにあり、

現実がそれを追随する逆転の関係になったからです。

そこでは、厄介な新種も現れました。

「ながら者」です。

彼らはスマートフォンに没入し、心理的には仮想空間にいながら

現実に身を置いているため、よくよく現実の“物体”と衝突します。

わたしもよく、目の前を立ちふさがれます。

ながら者にとっては、車もひともただの記号です。

スマートフォン上のピクトグラムのように、

表面的なシンボルだと認識されています。

停止者とながら者で渋滞し、事故が多発する路地。

ある意味では、ストリートは昔より物騒になったのかもしれません。

 

スマートフォンに生きた桜の姿を移そうとしても、

そこにはただ、切り取られたピクセルが残るだけです。

「季節を感じること」がトピックになるのも、

それだけ季節を感じる瞬間が少ないということの裏返しなのでしょう。

だからわたしは、桜餅をたくさん食べるわけです。

季節を感じたいなら、まず体内から。

お団子でも食べ歩きながら、街をぶらつき、遊歩者の復権をめざしたいと思います。

あ、わたしは令和より「健康」という文字を推したいです。

よろこびもかなしみも、健やかなればこそ。