グッピー先生

昨年の仕事納め前日、起きたら左下の奥歯が欠けていた。舌で触れると、あるべきところに、あるべき歯の感触がない。慌てて鏡で確認したが、欠けた部分はほんの少しで安心した。ただ、欠けた奥が茶色くなっている。どう見ても虫歯だ。

 

虫歯になるということは、どうしてこんなにも人を憂鬱にするのだろう。できれば目をそらしたい。放置したい。けれど、時間が経てば経つほど悪化するだけだし、最悪神経を抜かなきゃいけなくなる。数年前、虫歯を見ないふりをして、わりと目立つところが銀歯になってしまった。同じような失敗は絶対にしたくない。2020年を気持ちよくスタートするためにも、歯医者に行くことにした。

 

ネットで近所の歯医者を検索すると、6件ほどがヒットした。上から順番に見ていく。どこのサイトもきれいで、良さげだ。しかし、どうも決め手に欠ける。どこも同じようなデザインで、同じようなことが書いてあって、違いがわからなかったのだ。もう面倒だから、最初に見たところにしようかな。そう思いながら6件目のA歯科医院のサイトを開いた瞬間、おや?と思った。

 

左右のスペースがガラ空きで、トップページの画像はありえないくらい解像度が低い。さっきまで見てきたサイトと違い、どこか身近に感じられるデザインだった。なにより私の目を引いたのは、院長紹介のページだ。経歴欄の下らへんに「日本グッピー学会 所属」と書いてある。グッピーに学会なんてあるのか。というか、歯医者なのにグッピー・・・。もうここしかない。直感がそう告げていた。私はすぐに予約の電話をかけた。

 

自宅から歩いて5分ほどの場所にA歯科医院はあった。中に入ると、こじんまりとした待合室に暖かな空気が漂っている。客は一人もいない。その静かな空間で、横幅が150センチはある水槽が存在感を放っていた。想定していたよりもガチな規模だった。水槽の中では、色とりどりのグッピーたちが気持ち良さげに泳いでいる。水草もバランスよくレイアウトされていて、苔もまったくついていない。丁寧な仕事ぶりは明らかだった。やはりこの歯医者さんは当たりだな。椅子に座りながら、私は勝利を確信した。

 

「おまたせしました、どうぞ」呼ばれて診察室に入ると、白髪で眼鏡をかけたおじさん先生がいた。どこか、少し父に似ている。言われるがままに、診察台へと座る。口をすすいで、正面を見て驚いた。自分の正面の棚に、水槽がセッテングされていたのだ。ちょっとこれは想定外だった。まさか、施術中も水槽が見られるなんて。きっと、患者の心を和ませるための配慮に違いない。なんというホスピタリティだろう・・・。症状や処置の説明を受けながら、私はまたもや勝利を確信した。

 

ちなみにだが、診察の結果、虫歯よりもむしろ顎関節症のほうがまずい、ということがわかった。寝ている間に歯を強く食いしばっているせいで、歯に細かなヒビが入っている。そのヒビから菌が入り、虫歯になっていたようだ(先生がレントゲンを見て「これはひどい」とつぶやいていたのが今でも気になっている)。知らないうちになっている人もいるらしいので、みなさん気をつけてほしい。

 

治療は滞りなく終了した。どういう状況で、どんなことをするのか。ちゃんと説明をしながら、なるべく歯を削らないよう丁寧に治療をしてもらえた。やはりこの歯医者にして正解だった。しばらくはここにお世話になるだろう。雑談でもして、コミュニケーションを深めるのも悪くない。とすれば、話題はやはりグッピーだろう。きっとにこやかに話に乗っかってきてくれるはずだ。

 

私「そういえば、グッピーがお好きなんですか?」

先生「はあ・・・まあ」

 

返ってきたのは、あまりにもそっけない返事だった。さっきまでの優しい顔が、少し曇ったように見えた。えっ。実はグッピー好きじゃないの?こんなに水槽置いてあるのに?なんとなく気まずいまま、待合室に出て室内を見渡す。大きな水槽。その周りの壁には、グッピー関連の記事の切り抜きが何枚も貼られている。どう見ても先生はグッピー大好きだ。なのに、どうして。

 

そうか。そういえば、先生と私は初対面だ。急に距離を詰めようとしたから嫌がられたのかも。ツイッターで知らない人からいきなり「FF外から失礼します!」ってされたら、そりゃ「なんだこの人」ってなるよな。自分はFF外の人なんだ。なんだか急に申し訳なくなってきて、お会計をすませた後、すぐに外に出た。

 

あれから毎週のように先生に治療してもらっているが、グッピーの話は一度もしていない。そして、年末年始に父と顔を合わせたが、先生とはまったく似ていなかった。

 

遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。