第3の皿 カゴウさんのビーフシチュー

初めて味わった洋食は、ビーフシチューだ。
本当は他のものだったかもしれないが、
最も古い記憶にあるのは、この料理である。

 

幼稚園児の私は、祖母に手を引かれ、渋谷からバスに乗った。
細い路地を縦横に縫って走るバスに揺られること30分、下りた先は世田谷の上町(かみまち)。
閑静な街にたたずむ瀟洒なマンションの1階に、祖母の友人が住んでいた。
加々尾(かがお)さんと言う女性なのだが、
祖母はずっと「カゴウさん」と呼んでいて、
当人も確か電話口では「カゴウです」と名乗っていたはずだ。

 

玄関で出迎えてくれたのは、品のよい老夫婦。
夫人とともに現れた旦那さんは、ダンディではあったが、
来客にも関わらずガウン姿で、あいさつを済ませるとすぐ奥に引っ込んでしまった。
その後、夫人と祖母がおしゃべりに興じている応接間に、よい香りが漂い始めた。

 

子どもはいないが旦那さんをパパと呼ぶ夫人によると、
パパの趣味は料理で、それゆえに自分は一切厨房に立たないのだと言う。
私は子供心にも、軽く衝撃を覚えた。
「一般家庭で男性が料理を担当する(かつ、女性が料理をしない)」という、驚き。
現代ではともかく、1970年代前半の話である。

やがて、やっぱりガウン姿のパパさんが奥から運んで来たのは、ビーフシチューだった。
小たまねぎや面取りしたにんじんなど、具材も本格的だったので、
今にして思えば、市販のルーではなく、ソースから手作りしていた可能性が高い。

 

この日のことは、記憶のはるか彼方に眠り続けていたが、
料理をするようになった近年、よく思い出すようになった。
今やパパさんは、私の晩年のイメージモデルである。
ガウンを着るかどうかは、まだ決めていない。

 

ビーフシチュー(8皿分)

 

牛すね肉シチュー用 800g(一口大に切る)

 

たまねぎ 2個(みじん切り)
セロリ 1本(みじん切り) ※葉は除く
にんじん 1本(みじん切り)
ブラウンマッシュルーム 1パック(スライス)
にんにく 2かけ(みじん切り)

 

オリーブオイル 大さじ2
赤ワイン 750cc

 

〈A〉
トマト水煮缶 1缶
赤だしみそ 大さじ1
しょうゆ 小さじ1
ココアパウダー(無糖) 大さじ2
ローリエ 4枚
ローズマリー 小さじ1
タイム 小さじ1

 

ドライパセリ 少々

 

  1. 牛肉を切って、塩、こしょうと薄力粉(いずれも分量外)を振り、10分置いてなじませる。
  2. オイルを引いたフライパンで肉に焼き色を付けてから鍋へ移す。
  3. 刻んだ野菜をフライパンでとことん炒め、赤ワインを注いで強火で5分ほど煮立たせてから、鍋にあける。
  4. 鍋に〈A〉を入れ、ふたをしてとろ火で最低3時間以上煮る。器に盛りドライパセリをかける。

 

「カゴウさんの」と言っておきながら、デミグラスソース+ゴロゴロ野菜が入った
正統派のパパさんシチューとは、たぶんかなり異なる。
バターも薄力粉も使わず、みそだのしょうゆだのと本格にはほど遠い調味料も入るが、
「目隠しテストで全員がビーフシチューと認めました」という味に仕上がるから、不思議である。

 

刻んだ香味野菜とともに、深いコクを作り出すのは無糖のココアパウダー。
インスタントコーヒーやチョコレートでの代用も可能だ。
チョコレートを使う場合は、無糖もしくは低糖で、カカオ分が高いものを選ぶこと。
赤ワインをボトル1本使うが、買う店の最安値のもので十分である。

 

ビーフシチュー