動画の日々

最近また日本中が細かく揺れているなあ、と思っていたら、
木曽の御嶽山が噴火、しかも大勢の方が亡くなるという、またしても自然災害が。
日本に安全な場所なんてどこにもない、自分もいつどうなるかわからない、
という思いがいや増すのでありました。

 

それにしても、驚いたというか、時代だなあと思ったのは、
ほぼ正午に近い午前中に起こった噴火の様子の動画が、
もう2時間後ぐらいには動画サイトに上がっていたこと。
それもただならぬ状況がよくわかる、くっきりときれいな画像で。
その後に、たまたま取材で入山していたNHKのクルーの撮影した映像も放送されましたが、
もちろんその臨場感はサイトの方が格段に勝っていて、
メディアにも何度も取り上げられているし、検索ワードにもあがっていました。

 

そして時期を同じくして、もうひとつの動画を見ました。
神戸の女児遺棄事件の容疑者とされる人物が
事件より以前に、自宅を訪れた警察官と何やら揉めているところを
近所の人が撮影したらしい動画です。
その意図はわかりませんが、ガラケーで撮影された粗い画質の中の、
その人物の支離滅裂な言動を見ていると、
事件の内容とあいまって、いたたまれない気持ちになりました。

 

二つの動画を比べても、もちろん何も共通点はありません。
ただ素人が撮影した動画、というだけです。
何を今さらですが、スマホだろうがガラケーだろうが、
ケータイを持っているほぼすべての人がいつでもどこでも動画を撮影できる状況、
そしてそれをネット上に自由にアップできる状況というのは、
わたしが子どもの頃に見た
小松崎茂の空想科学イラストに描かれていたモチーフが実現したようで、
本当に未来がやってきたのだなあと思わされるわけです。
何せ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が描いた未来は、2015年、来年ですからね。
非情な災害も痛ましい事件も、子どもの運動会も、毎日の飲み会も、
ただそこにいたというだけで撮影され、
境目もなくそれぞれの端末の中でデータになっている。
その気になれば世界中の誰でもが見られる状態で。
いや見られるのを待っている状態で。

 

まあ、時代だ、と割り切るしかないんでしょうが、
撮れる、ということは、当然撮られうる、ということで、
動画慣れしていない自分としてはとまどうことのみ多かりき。

 

そもそも「静止画」に対する「動画」なんて言葉がでてきたのは、
デジタル化が進んでからで、
それまでは今の動画のことを「ビデオに撮る、撮った、撮られた」が転じて
何でも「ビデオ」と言っていました。
わたしは子どもの頃からビデオがあった世代ではないので、
未だにまったく撮られ慣れない。動いている自分を直視できない。
写真が発明された頃に、「魂が抜かれる」と恐れていた幕末だか明治だかの人、と
おんなじじゃねーか、と思ったりするわけです。
しかし、避けて通れぬ道ならば、とりあえずダイエットに励むか、
せいぜい関係者に動画を提供されないよう、犯罪者にならないようにするのみです。
消極的。