タモリの日々

先ごろ終了が発表されたその番組は、わたしが上京した年に始まりました。
はじめて何人かで誰かの家に泊まって夜明かしした時、
第一回の桜田淳子から始まったテレホンショッキングのゲストを
順番に言い合ったことを覚えています。
おそらく番宣ややらせなどといった大人の事情などなく、
純粋に友達とか知り合いにつないでいた、
何ならタレント本人が次の人に電話をかけていた
32年前の「笑っていいとも!」スタート時の思い出です。

 

その人からは強烈な夜の匂いがしていました。
ちょうど思春期に入り、深夜ラジオを聴くことが許されるようになったわたしは
水曜日深夜1時からの「タモリのオールナイトニッポン」に夢中になりました。
どこから現れたのかわからない胡散臭さ、猥雑さ、
四か国語マージャンやつぎはぎニュースなどの無国籍で無責任な芸風、
しかしそこはかとなくあふれ出る知性や教養
(そこはかとない、という言い回しもわたしはこのラジオから学びました)。
早稲田、哲学、中退、ジャズ、ミュージシャン、アルコール、煙草…、
地方の女子中学生にはもうとてつもない大人の世界です。
山下洋輔や赤塚不二夫、高平哲郎といった当時の一流のクリエイターたちと
四谷、新宿あたりの酒場で夜な夜な繰り広げられている宴の話を聞くたびに、
そこで繰り出される、テレビはもちろんラジオですら披露できない、
密室芸というものに想像を膨らませていました。
いつか東京に行って、それを見てみたい、一緒に飲んでみたいと妄想していました。
もちろん今でもしています。

 

「また見てくれるかな?」「いいともー!」、という和気藹々の
コール&レスポンスからまったく遠いところにいたはずのその人が
アイパッチをサングラスに替え、
お昼の顔になり、
“お笑いビッグ3”と呼ばれるようになるまでにそう時間はかかりませんでした。
軍団と呼ばれるような若手を育てることもなく、
女優と結婚して家庭や子どもの話をしたりすることもなく、
つるまず、こだわらず、求めず、顧みず、
飄々というか恬淡とテレビの中に居続けました。
そんな孤高の存在感が好きでした。
だからこそ、赤塚不二夫の弔辞を読んだときに一瞬垣間見えた人間味に震えました。

 

番組終了が発表されてからほどなくして、
ラジオ番組に出演するというので耳を傾けてみると、
パーソナリティの久保ミツロウと能町みね子を相手に、
ラジオならではの下ネタをはさみながら
「子宮」という形態模写?のようなものを披露していました。これぞ密室芸です。
その場で見ることができた人を心から羨ましいと思いました、
中学の時のように。

 

「笑っていいとも!」が何年続こうと、
心の底では「どうでもいいとも!」というスタンスだったであろうその人には
“タモリ倶楽部”と“ブラタモリ”とラジオだけを続けてほしいと思います。
時を同じくして、息子の不祥事を発端に大物司会者が番組を降板し、
「はなまるマーケット」も終了が発表されました。
テレビの時代が確実に終わりに向かっているということでしょうか。
昔、住んでいた街を訪ねてみたら、
当時行きつけだった定食屋が閉店していました。
次に幕を下ろすのは何でしょうか。