閉める回

タイトルは閉める回ですが、
あけましておめでとうございます。
コピーライターなのに筆無精なわたしに年賀状をくださった
心優しい皆様、ありがとうございました。
年賀状にかえて(かえるのかい)ここにお礼とご挨拶を申し上げます。

 

コピーライターに何年ぶりでしょう。
新しい仲間が加わり、変化の多い年になるのかなと漠然と思っています。
古株のわたしもどうぞよろしくお願いいたします。

 

さてさて、正月太りの話題はこの辺にして。
突然ですが、鍵っ子でした。
両親が共働きだったため、
小学生の頃に「家の鍵」を持たされたわけです。

 

母から渡された自分だけの鍵は、ひんやりしていて、
銀色に光っていました。
母は、なくさないようにと、鍵をいれる小物を一緒にくれました。
ピカソを模したエンブレムが施された、人口革の青色のキーケース。
美術館のピカソ展とか、多分そんなことろで買ったものだったと思います。
デコボコしたキュビズムの革の輪郭は、
だんだん手になじんで丸くなっていきました。

 

じゃりじゃりとかガチンガチンとか、
鍵とほかの金属の当たる音が好きではなかったので、
キーケースには鍵しかつけませんでした。
手のひらにちょうどおさまってしまうほどの大きさで、
いつも握りしめていたので、
今でもそのキーケースを触ると
自分が小さな子どもに戻ってしまったような気がします。

 

両親の帰りを待つ時間は、楽しかったようで、
やっぱりどこか寂しさもありました。

 

親たちが帰ってきてやっと、
自分が「家にいる」ことが実感できたのかもしれません。
不思議ですけれど、自分一人だけが家にいても、
家にいる感覚が希薄で、自分はどこにもいないようなおぼえろげな不安がありました。
家のほうも、ガヤガヤとした複雑な音を立てる、
どしりとした重量のある大人たちがそろってから
やっと「家」として重い腰を上げて、生き生きと動きだすように感じられました。

 

父は、家の鍵をかけたか何回も扉を引っ張って確認するたちなので、
わたしも自然にそうなりました。
子どもは親を自然と真似るものなのですね。
あの、引っ張っても動かないし開かないという感覚で
ようやく「よしOK」と思うのです。
家のほうはいい迷惑だったと思います。

 

昔、小学生の時だったか、
帰ったら家がなくなっていたという内容の本を読んで、
わたしは本当におそろしくなりました。
学校から帰ってきて、家のあるはずの場所に家がなかったら?

 

「お父さんがいっぱい」という本でした。
タイトルにもあるように、
家に帰ったら同じお父さんが何人も何人も登場するという
身の毛もよだつような話がシュールに淡々と語られる本です。
興味があったらぜひ読んでみてください。
その本を読んだときは、真剣に悩みました。

 

本は、恐ろしいものです。
だって「お父さんが無限に増えていっぱいになる可能性」を
わたしの頭に植え付けてしまったから。
「お父さんがいっぱいになる可能性があるんだ」と知った時、
目の前に広がっていた完全な世界にひびが入ってしまったのです。
わたしは、本だけが人生を変えることができると思っているのですが、
そのインパクトを最初に経験したのはこの時だったように思います。
為政者がこぞって焚書を行ったのも、
書かれた文字の影響力を知っていたからでしょう。
言葉は、恐ろしくて、それゆえにひどく魅力的です。

 

本を読み終えた日、
家に帰ってお父さんが一人だけだったので、ほっと胸をなでおろしました。
よかった、と心から安心しました。

 

でも、ピンポーンとチャイムが鳴って、
誰だろうと思って玄関に行ってみるとそこには……

 

ね、読みたくなるでしょ?

 

寒い日が続きます。
家にそっと鍵をおろして、読書に没頭するのもいいものですよね。
今年はもっと本を読む年にしたいです。

 

大晦日にPPAPを突然踊りだした母も相当面白かったですが、
年始のお笑い番組の中ではこのコンビが最高でした。