記憶の回
先日、母と姉と三人で目白をぶらぶらしていたとき、
母が突然、立ち止まりました。
通りに面した、洋服の仕立て屋さんの前でした。
「こういうお店を持つのが、お父さんの夢だったの」
と自分に語って聞かせるように、母は言いました。
母の父は、下町の小さな仕立て屋さんで、
生地などはお店に置いていなかったそうで、
注文を受け、生地を買いにいき、それを仕立てていたとか。
母から聞く昔の話は、わたしとは直接つながらない遠くの風景だけれど、
母という存在から伸びていく母個人の記憶の枝葉は、
わたしにもどこかしら懐かしさを感じさせます。
娘のわたしにとっても、とても興味深いものです。
お店の前で立ち止まった母の後ろ姿が、
店の奥で仕事している父の姿をじっと見つめる、まだ幼い少女に見えました。
突然そばにいる人間との関わりが途切れ、
自分が、自分の記憶の中の景色をつながる。
わたしにも経験があります。
この間、久しぶりに、大学時代によく行っていた映画館で、
高校から大学まで一緒だった親しい友人と、映画を観ました。
トマス・マンの小説をルキーノ・ヴィスコンティが映画化したものです。
わたしは、彼女と映画を観ること自体が久しぶりでした。
そして隣に座ったとき、ああこういうふうに、過去にも隣に座って映画を観たなと、
心のなかに淡く記憶が広がりました。
映画は、ある中年の芸術家が、遠く離れたベニス(ヴェネツィア)の地で、
世にも美しい16歳の少年(タジオ)に一目ぼれをする、というまぁ、お耽美な話です。
映画を観ればよくわかりますが、とりあえずタジオ、美形です。
美少年の原型っていうのはこのタジオなんだろうなぁ。
おもしろかったです。プラトニックラブで。
駅から大学までの道は、歩いて10分~15分ほどあります。
3分の1ほど行ったところに、その映画館はありました。
いわゆるミニシアター、単館系の映画館です。
駅前は学生でごった返し、いくつものグループがそこここにできて、
点灯し続けるネオンを音声化したような喧騒でした。
映画を観終わったあと、近くのイタリアンで食事をし、いろいろな話をしました。
飲み会でもなく、二人でお酒を飲んで話すというのは、不思議でした。
お互いにしょっぱい時代を過ごしたなぁという照れと、懐かしさ。
会計をするときに「いいよ出すよ」と多めに出そうとするところに、
二人とも社会人になったのだなぁと小さな感慨を覚えたり。
駅まで帰るときも、いっそう人混みは増し、
人々のざわめきが交差点を埋め尽くしていました。
その時に、ちょうど大学方面から帰るかっこうで駅を見て、
すごく奇妙な気がしました。
磁場がゆがんでしまったようで、ぐらぐらした感覚に襲われました。
大学を卒業してもうずいぶんと時間が経つのに、
駅前に広がる光景が、ひどく親しげに、生々しく感じられたからです。
まだ社会に属していない、お気楽でモラトリアムな大学生に
一瞬にして戻ってしまったような気がしたのです。
大学時代の4年間という今にしてみれば膨大な時間は、
わたしのなかで泡のように消えてしまっているはずでした。
もちろん4年間には4年間なりの密度と、できごとと、変化があったけれど、
それはもう何もかも終わってしまったことだと思っていました。
なのに、そのすべてが未決のままわたしの背後に、
大使館の敷地にあるちいさな黒い森のように、
ひっそりと残されているような気持ちになったのです。
振り返ったら、本当に大学1年生から、また4年間をやり直さなければいけない。
もう一度、一からたどらなければいけない。そんな気がしました。
「もう10年だよ」
彼女の声がして、わたしは我に返りました。
「そうだね」
高校時代から、そう、もう10年経つのです。
お酒を飲んだせいで、少し酔っていたのかもしれません。
酔うと、だいたい人はセンチメンタルジャーニーに旅立つものです。
記憶には、そういうあまのじゃく的なところがあるのです。
人を、混乱させて、困らせてやろうというような。
小さなこびとのような。
みなさんは、村上春樹の新作は読みましたか?
100万部売れる小説というのは、一体どんな小説なのか。
村上春樹の新作だけが異常に売れる社会は、一体どんな社会なのか。
なぜ村上作品の森にはこびとがいるのか。
でも、村上春樹が出す本はこれからもベストセラーでしょう。
わたしは、今の新刊の続編、パート2が出版される気がしています。
ぜひ、自分で本屋に行き、手に取り、買って、読んでみてください。
まぁ・・・学生時代ってのは、すべからくしょっぱいもんだと思います。