本場というビューティー 名画の回

シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による― (国立新美術館)
レンブラント 光の探求/闇の誘惑 (国立西洋美術館)
シュテーデル美術館所蔵フェルメール 《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展 (Bunkamuraザ・ミュージアム)

 

・・・とまあ、行きたい展覧会はやまほどあるわけですがね。
ちょっと前にゴッホ展やってたときも
っていうかゴッホ展っていつもやってる!?
ゴッホ展が来るたびに「またゴッホかい」と思わなくもないです。
好きだけどさ、ゴッホ!

 

わたし、見たときに脳天かち割られるくらい衝撃的だった絵、
足がすくんだ絵っていうのがありまして。
いくつか、あるんですけど。

 

まず、レンブラントの『夜警』。

 

アムステルダムの国立美術館で見たんです。
びっっっっくりした。度肝ぬかれた。
その巨大さに。
美術の資料集や画像で見ても、実際の大きさってなかなか想像できない。

 

『夜警』が置かれている部屋は、
『夜警』と、『織物商組合の幹部たち』という2作品しか飾ってないんです。

 

ほかの部屋とちがって真っ黒でスタイリッシュな空間に、
レンブラントのあの何とも言えない浮遊感のある2作品が、対面にかけられている。
はぁーーーーーーーー(ため息)。
なぜ、あんなに迫力があるのにあんなに繊細でいられるの?

 

レンブラントはよく「光と闇を自在に操る」って言われます。
でも、光がどうの闇がどうのなんて講釈は、もはや無意味。

 

『夜警』を見上げる。

 

絵のなかの静寂に引き込まれる。
時間が止まる感覚。
部屋に誰も感じない。

 

そう思った瞬間、ざわついた喧騒へ戻される。
人がいる。現実にハッとする。
引き込まれそうなのに、そうさせてくれない。

 

『夜警』は、画面を構成している登場人物とかは
決して派手ではないし、構図自体もどこか
「はいはいレンブラントねそうだよね光と影のアレね」と
もうその手は知ってますよと、うがった見方をしてしまいがちだけれど。

 

でも、『夜警』の前に立つということは、とんでもなく強烈な体験なんです。

 

寒気がする。それくらい感動する。
浅い予備知識が、気持ちいいくらいあっさり吹き飛ばされる。
たまんないです、あの感じ。
過去にこんな絵を描いた人がいたんだ、そのことに単純に驚くし、
レンブラントが、完成した『夜警』をこうして眺めたように
わたしもその前に立っているんだ、と思うと、足がガクガクする。

 

大きな絵は、大きいってだけですごくいいなぁ。
涙腺が崩壊寸前だぜ。

 

ちっくしょうレンブラントのやつ!
すばらしい絵を残してくれやがった!
ありがとうございます!ありがとうございます!!
って結局泣いてその部屋をあとにするのでした。

 

対して、
「おや?」って感じで力が抜けたのは『モナリザ』でーす。
実際にルーヴル美術館に飾られているところは映像などで
とても有名だけど、本当に、ガラスケースに入ってるんだよねー。

 

 

しかも、なんかね、ちっちゃいんですよ。
想像していたより小さくて、ふっと消えちゃいそう。
そういう意味では、現存していることが奇跡的な感じがします。

 

 

しっかしさ、パリのルーヴル美術館にしても
ニューヨークのメトロポリタン美術館にしても
ロンドンの大英博物館にしても
なんであんなに広いんですかって。

 

見きれるかーい!!!
ミイラ見て終わるわ!(@大英博物館)
サモトラケのニケとか、片腕のないミロのビーナスとか、
ハイ、載ってましたー!!!!世界史の資料集載ってましたー!!!!(資料集大好きだからテンションUP)
って叫び出しそうなものたちが普通にゴロゴロあって。
目に贅沢すぎてそれが贅沢なのかどうなのかもはや混乱する状態。

 

だからね、もちろん日本で歴史的な名画の展覧会を見られるって
すばらしいことだと思いますよ、思うけど、
→そこまで広くない会場に人が殺到。
→「絵の前で立ち止まらないでくださーい」って言われ続ける。
→イライラする。
→吐きそう。
ね、わたしには全然性にあわないんです。

 

あとは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』。

 

『最後の晩餐』はミラノの教会にあるんです。
門外不出なので実際にそこに行かないと見られない。
サンタ・マリア・デッリ・グラッツェ教会。
そこの食堂の壁画として描かれたのが『最後の晩餐』です。
事前予約が必要だということで、
インフォメーションセンターにおそるおそる公衆電話から電話をかけたけど
「ボンジョルノ~??」から先のイタリア語がわからず、
英語でもうまく話せなくて、結局予約できずじまい。

 

せっっかくミラノにいるのに!!!
それでも、教会にだけは行こう。見られなくても。
ということで、けっこう朝早い時間にサンタ・マリア・デッリ・グラッツェ教会へ行きました。
そこで、受付の人に「リザーブしていないのだけど」と聞いてみたら、
昼の回なら入れると言われ超ラッキー!!!!
ひゃっほーい!
その場で予約を入れてくれました。いやー早く行ってみるもんだー。

 

1グループ10人ずつくらいで
そのサンタ・マリア・デッリ・グラッツェ教会の敷地を歩いて見て回る。
そしてラストに、『最後の晩餐』のある食堂へ。

 

わたしが行ったときは、『最後の晩餐』は絵を修復したあとで、
とても鮮やかな美しい姿をしていました。

 

食堂は、石造りで寒く、自然光と絵に影響のないわずかな照明だけ。
薄暗く、静かな食堂の壁面に描かれたそれは、ほんとうにドラマチックだった。

 

人を黙らせる絵でした。

 

一瞬の情景を閉じ込めたようであり、
今まさにそのあとのドラマが展開しそうであり、
「この中にわたしを裏切る者がいる」と言うキリストの顔を見ているうちに
まわりの弟子たちの表情が変わってしまいそうで、
どこからも目を離せない。

 

この絵のすべて、テーブルの上のパンや葡萄酒や
テーブルクロスや背景の窓や弟子の表情すべてに、「何か」が起こりつつある。
すべて同時に起こりつつある。
わたしはただ、果てしない時間をかけて生起しつつある、
『最後の晩餐』のほんの一瞬の画だけを垣間見たにすぎないのかもしれない。

 

圧倒されて、しばらく絵の前で呆けてました。
10分ほどたち、退出を促される。もうその場にいることはできない。
あとのグループと入れ替わりで、食堂から出ると、
外はもちろん、おだやかな日差しがさしている現代のミラノ。

 

食堂へこれから入る人と、食堂から出てくる人は、まったく表情が違う。
あの絵が、人に言葉を飲み込ませるから。
わたしは、みぞおちあたりに重たい衝撃が残ったままでした。

 

で、ピッツアマルゲリータ、プレーゴ!
そのあと地元の食堂で「ぜんぜん晩でも最後でもない晩餐」を。
つまり、たらふく食べるのでした。

 

動かない歴史的な名画のために、自分が動く。
そこへ行く過程(+食事)が、絵を見る体験なんです。ごっつあんです!!!