曾根崎心中の回

衝撃的なできごとが続く6月ですが、
みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

わたしは舞台が好きなので、今回は(今回も)その話です。
先日「ずっと生きているだろう」と思って疑わなかった
ある偉大な演劇人が、亡くなりました。

驚きました。
わたしは、あまり彼の演出した舞台を観に行ったことがないのですが、
「さいたまゴールドシアター」という
シニア世代が演じる舞台を観たことがあります。
人のエネルギーの圧力、猥雑さ、暴力性のなかにある、
純粋無垢な魂のうごめきを目の当たりにした思いでした。
出演者の老人たちはみなどこか、蜷川幸雄の面影を負っていました。

 

追悼ドキュメンタリー番組の中で、印象的なシーンがありました。
蜷川幸雄が、自分が商業演劇へ舵を切ることを告げた
当時の仲間たちから批判された、という話のときに、
仲間たちが前もって自分だけに知らせずひそかに集まり、
自分を糾弾する話し合いをしていたのではないかと思っている、と言ったときです。

 

「でも…聞けない」

 

彼はそうつぶやきました。
ああ…なんと重いものを彼はまだ腹の底に持っているのか。
あの時の青年のまま、その気持ちを抱えて、今も生きているのだ。
その言葉に、わたしは自然に涙ぐむほど胸をつかれました。
伝説的な演劇人だったと思います。
そして、単なる一人の人間だったのだと思います。
ささやかながら、ご冥福をお祈りいたします。

 

本題は、そう「曾根崎心中」でした。
近松門左衛門の傑作。
なんと、文楽で観てきました。

 

文楽を観るのは、
国宝の太夫が引退するというサヨナラ公演を観て以来、
人生で二度目でした。

 

わたしが観た「曾根崎心中」は、
初めて観る人に楽しんでもらうための文楽教室という位置づけで、
公演の前に、太夫や三味線、人形遣いが
それぞれの立場で文楽について解説してくれました。
登場人物によって三味線の音色を変えているとか、
人形遣いは三人なのでその大変さや息のあったしぐさ、
太夫の語りをお客さんみんなで声に出してみたりなど、
文楽の世界にすっと入っていけるように
非常にわかりやすく説明してくれたのですが、
公演中はそれを思い出すヒマもなく
「曾根崎心中」というドラマのうねりに引きこまれていました。

 

現在、文楽の「曾根崎心中」として
上演されるホン(大夫が語るコトバ)は、
近松門左衛門が実際に書いたものをもとにして、
昭和になってから書き直されたものです。
近松門左衛門が書いたそのままの部分も残っていますが、
多くは切り貼りされ、リライトされてしまっている。
近松門左衛門のホンで味わえないのは少し残念ですが、
だからといってこの傑作を観ない手はありません。

 

主な登場人物は、徳兵衛、お初、九平次、の三人。
ざっくり言いますと、
ある男(徳兵衛)が友人(九平次)のために貸した金を踏み倒され、
絶望して恋人(お初)といっしょに心中してしまう、という話です。

 

時は元禄、江戸時代。
この「曾根崎心中」は元禄16年(1703年)に
実際に起きた心中事件をもとに近松門左衛門が脚色し、
なんと事件の約2ヵ月後にはもう“舞台化”されたのです。
「曾根崎心中」は大評判を呼び、江戸では心中が大流行。
社会現象になったのです。
すごいですよね、心中が大流行ですよ。
幕府はこの影響力を重大視して、
いわゆる「心中物」の上演を禁止するに至りました。
それから、歌舞伎で復活上演されたのが昭和28年(1953年)のこと。
文楽では昭和30年(1955年)ということで、
実に200年以上の長きわたり、
日の目を見ることはなかった幻の作品だったのです。

 

今で言えばゲス不倫騒動で不倫が大流行。
仕事や生活に支障が出る家族が続出したため、
日本政府は国を挙げて「不倫禁止」の法律を定めた、
みたいなことでしょうか。
あれ、つまんない話になっちゃった(笑)。

 

文楽の「曾根崎心中」は、3つの場面で構成されています。
生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段。
それぞれが素晴らしいですが、特に、天満屋の段。
徳兵衛とお初が心中を決意するところは凄まじいです。
文楽では、基本的に着物姿である女性の人形には
足がないのですが、天満屋の段のお初には足があります。
これはなにも見える人には見える…的な怪談話ではなく、
心中に向かう二人の気持ちを固める、
そんな重要な役割を担うために「足」が採用されているのです。
「足」が使われると言っても、
男性の人形のようにしっかりと二本足が見えるわけではありません。
お初はハイクラスの遊女なので、とても豪華な着物を着ています。
着物の裾も人を隠せるくらい長く、
足もそこまであからさまには見えない、というわけです。

 

物語は、友に裏切られ意気消沈した徳兵衛が
夜、お初のいる天満屋という遊郭にふらふらとやってくる場面。
愛しいお初に会いたいわけです。
縁側へ出たお初は徳兵衛の突然の訪問に驚き、
徳兵衛を着物の裾で隠して、天満屋の縁の下に導き入れます。
着物、すごく立派ですからね、人の一人くらい隠せます。
しかしすごい度胸ですよね。肝が据わっている…。

 

さて、そこに徳兵衛を裏切った張本人の九平次がやってきます。
九平次は自分が借金を踏み倒したのに、
徳兵衛こそが嘘をついているあいつは悪人だと散々に言いふらします。
デマを吹聴されるのを縁の下で聞く徳兵衛の心境たるや。
もう我慢ならん…!とすわ着物の裾から飛び出そうとする徳兵衛を、
お初が「足」で制します。

 

出てきました、ここで、お初の「足」の登場です。
お初は、自分の恋人の無罪を九平次に訴えます。
恋人はそれを証明するために命をかけることも辞さない、
私はそのあとを追う覚悟があるまで言いきるのです。
おひゅ〜〜〜!お初かっこいい!!
徳兵衛ははじめて、お初の心中への強い意志を聞かされるわけです。
それは「徳兵衛、おまえはどうする」という問いでもある。
私はおまえのために死ぬことができる、
はたしておまえは、と。
九平次へのコトバを通して、お初は徳兵衛の心を問うのです。

 

徳兵衛は、どうするのでしょうか。
ここは実際に観て感じてほしいところですが、
とてもドラマティックで、さらにエロティックでした。
どういうことかと言うと、
徳兵衛はお初の「足」を自分の喉仏にあてる。
そうして、私はおまえと同じ気持ちである、私も死ぬ覚悟があると伝えるのです。
その時のお初の顔…!
忘れかけていましたが、これはすべて人形遣いがやっていること。

 

徳兵衛の人形遣いが、お初人形の「足」を徳兵衛人形の喉にあてたあの瞬間、
人形という無機物から、感情の熱があふれだすのを見ました。
人形の顔に、本物の人間のような血の色がさっと兆すのです。
お初人形も、足で恋人の喉を感じることで「想いを受け取った」という顔をする。
人形遣いがお初人形の目を閉じさせ、その表情を演じさせます。

 

わたしは動悸がおさまりませんでした。
なんという、色気のある場面なのだろう。
これまで生きてきたなかで、
恋人の喉を「感じる」お初のように色気を出せたことがあったかしら…?
おもわず自問しちゃったよね!否だよ!

 

歌舞伎の女形と同じように、
文楽でも女形を演じるのは男性の人形遣いです。
自分の性とは異なる性を演じる、
そうした伝統芸能が日本はいまだに残っていて、
素晴らしい豊かさだなぁと感じます。

 

夜の闇に浮かび上がる人形の顔は、
とても美しいです。
情報量の多い人間の顔とはまったく違う。
命なきもの、単なる容れ物としての、
人形の空っぽの美しさ。

 

文楽の「曾根崎心中」おすすめです。
機会があればぜひ、観てください。