古典芸能の回

最近、古典芸能にハマりつつあります。
以前から少しずつですが歌舞伎を観に行ったり、
ヒマな時に落語を聴いたりしていたところ、
ふと目に留まったのが「文楽」でした。

 

「文楽」ーーこの深遠にして、近寄り難い雰囲気。

 

何の脈絡もなく、亡き祖父の顔が浮かびます。

 

文楽は、人形を操って表現する古典芸能ですね。
公益財団法人「文楽協会」のホームページから下記、引用してみます。

 

人形浄瑠璃文楽は、日本を代表する伝統芸能の一つで、

太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術です。
その成立ちは江戸時代初期にさかのぼり、
古くはあやつり人形、そののち人形浄瑠璃と呼ばれています。
竹本義太夫の義太夫節と近松門左衛門の作品により、
人形浄瑠璃は大人気を得て全盛期を迎え、竹本座が創設されました。
この後豊竹座をはじめいくつかの人形浄瑠璃座が盛衰を繰り返し、
幕末、淡路の植村文楽軒が大阪ではじめた一座が
最も有力で中心的な存在となり、
やがて「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞となり今日に至っています。

 

とのことです。
乱暴に要約すると、
昔むかし人形浄瑠璃と呼ばれていたものが「文楽」と呼ばれるようになった、と。

 

この文楽にいつか行ってみたいなぁと思っていました。
思い立ったが吉日、早速、2月の文楽の公演を検索。
すると、2月の文楽公演で引退してしまう太夫がいるとわかりました。

 

太夫とは、語りによって、
物語の舞台、物語の状況、登場人物の造形、台詞を全て表現する人のことです。

 

文楽のお芝居は、
人形の動きを担当する「人形遣い」と「太夫」と「三味線」で成り立っています。

 

その「太夫」で国宝になった
八代豊竹嶋大夫さんが引退する公演がある、というのです。

 

宝塚で言えばトップスターの退団公演のようなもの。
これは天啓だと思い、その場で行くことに決めました。
国立劇場のホームページからチケットを購入できるのですが、
のぞいてみると、なんと前から6列目が1席だけ空いていました。
わたしのような初心者が6列目で観てもいいのかと一瞬ひるみましたが、
そこはもうお導きがあったのだと思い、ポチッとな。

 

いざ国立劇場へ。
その日は、晴れわたった素晴らしい日でした。
永田町で降り、反対方向へ行ったりして迷いながらどうにか15分前に到着。
文楽がおこなわれる劇場は、なかなかこじんまりしたところでした。

 

演目は「桜鍔恨鮫鞘(さくらつばうらみのさめざや)」と、
八代豊竹嶋大夫引退公演「関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)」です。

 

劇場内はたくさんのお客さんであふれていました。
お着物をエレガントに着こなす「家庭画報」的な上流階級と思しきご婦人から、
一癖も二癖もありそうな文楽マニアなおじさんたち、
昭和の文豪か評論家かといった風情のモダンな紳士、
椎名林檎を好きそうな(完全に偏見) 若い女性など多岐にわたっています。

 

早速、自分の席に座ると、前列に髪をモリっとまとめたご婦人が。
前列と段差がなかったので舞台を見るときにかぶりそうだなと
嫌な予感はしましたが、
女性なのでそこまで座高は高くならないだろうと高をくくっていました。

 

が、上演中そのご婦人がうつらうつらと舟を漕ぎ出し、
顔が下に向いたおかげで、
舞台を観ようとして女性のアタマと舞台がもろかぶってしまったのです。

 

むむむ…

 

でも、初めて観た文楽は、そんなことも吹っ飛ぶほどに、
衝撃的でした。

 

歌舞伎も、宝塚も、演じるのは人間ですよね。
でも、文楽は人形です。
主な役を演じる人形には、1体につき3人ほど「人形遣い」がつきます。
目を動かしたり、アタマを動かしたりして
登場人物の気持ちを表現する人形遣いは顔が見えており、
逆にあとの二人は黒子です。

 

つまり、文楽は「人形遣いに操られた人形が、役を演じていますよ」
ということが常に露わになっているわけです。
これは、非常に特異な状態です。

 

近代演劇とは「役を演じている」ということをいかに隠すか、
感じさせないか、ということを至上命題にしています。
いわゆる「嘘っぽくない」ってやつです。
嘘っぽい芝居、下手な芝居では観客がしらけてしまい、
感情移入してドラマを感じることができないからです。

 

古畑任三郎は田村正和ではなく古畑任三郎として存在しなければならない。
本人役ではないからですね。
もう田村正和を見ても古畑任三郎だとしか思えないなら、
近代演劇的には大成功です。

 

でも、文楽ではあらかじめ、この命題が無効になっています。
「これは嘘ですよ、演じられているものですよ」ということが、
上演中ずっと観客にたいして明らかになっているのです。

 

ブレヒトというドイツの演劇界の大家が、
演劇における「異化効果」という現象を説明しています。
異化効果とは、いま、ここで行われていることは、
芝居であり、嘘っぱちである、ということを絶えず観客に気づかせる効果のことです。

 

文楽では、初めから終わりまで、異化効果で成立しています。
人形遣いが黙ってただ人形を動かすことで観客を異化し、
人形はしゃべらず、
太夫が舞台とはべつの方向から人形の気持ちを義太夫節で語ることで、
観客を異化しているわけです。

 

それでは、そんな「嘘」の舞台に、
観る側は、しらけてしまうのでしょうか。
人形がしゃべらないから、
人形遣いが見えているからといって、楽しめないのでしょうか。

 

いいえ、です。

 

わたしの体験から言わせてもらえば、
どでかい稲妻に打たれるくらい、ゾクゾクします。

 

人形を操っているのは人間です。
女性も、男性も、おじいちゃんも、子どもも、
すべて男性の人形遣いが操っています。
操られていることを承知で見ていても、
だんだん人形に魂が息づくのがわかるのです。

 

それは、とてもスリリングな経験です。

 

登場人物の台詞が舞台からではなく、
廻り舞台という太夫専用の舞台から聞こえてきても、
人形の想いが心にひたひたと押し寄せ、
胸が苦しくなったり、せつなくなったりするのです。

 

まず震えがきたのは、
「桜鍔恨鮫鞘」という世話物の演目を観ていたときでした。

 

お妻という女性の人形が、暖簾をくぐって出てくる瞬間です。

 

大きくない舞台の奥に暖簾がかけてあり、
それを「お妻」人形が手でのけてそっと入って来たとき、
わたしは鳥肌が立ちました。

 

「お妻さんだ」と直感したのです。

 

人形が暖簾をくぐって出てきた、ただそれだけのこと。
でも、そこにお妻の命がたしかに宿っていました。
あの衝撃は、筆舌に尽くし難いです。

 

世話物とは、今で言うスキャンダルや心中や殺人など
事件性のある題材を劇作したもので、
「桜鍔恨鮫鞘」もものすごくスキャンダラスな物語でした。
詳しく書きたいのですが、一言で言うと
ワイドショーのネタになりそうな殺人事件、です。
ものすごく面白いです。

 

休憩を挟み、いよいよ「関取千両幟」。
まず、引退公演であることが引退する嶋大夫のお弟子さんから告げられます。
そこに引退するトップスター、八代豊竹嶋大夫が登場し、一礼して語り始めます。

 

驚きました。

 

前列のアタマが大きかった女性が
この演目のときには姿を消していたこともですが、
それ以上に、嶋大夫の艶やかな声にです。

1932年生まれの御年84歳。
圧倒的、としか言えない声でした。
どこまでも伸びやかで、太く、張りの良い声に、情感あふれる表現力。
これが国宝なのか…と唸らずにはいられませんでした。
語り終えたときの観客からの万雷の拍手は、
劇場が嬉しそうな悲鳴を上げて軋んでいるかのようでした。

 

この演目を観られたわたしは本当に幸運だった…と
感動で胸を熱くして席を立ったとき、
席で、あふれる涙をおさえきれずに泣いている女性がいました。

 

引退は、もう二度とその人の芸を観られなくなることです。
わたしは自分の贔屓が宝塚を退団したときのことを思い出しました。

 

今だけは観ることのできる至高の芸。
なににも代え難い時間は、ゆっくりと確実に過ぎていきます。

 

すっかり日が暮れた永田町を歩きながら、
どうしてわたしはこんなに日本の古典芸能が好きになったのだろうと
不思議な気持ちでした。

 

歌舞伎や文楽は眠くなってしまうという人がいます。
わたしももちろん眠くなります。
でも、眠さと面白さは、まったく別次元の話なんです。

 

上演時間でもわかるように、
歌舞伎や文楽や能の舞台に流れている時間は、おそろしく長いです。
4時間とか5時間とか平気でやっています。
気が長すぎますね。
だから、現在の分刻みで電車のダイヤが組まれているような
まわりの時間感覚と「ずれ」があるように思います。

 

でも、それがたまらなく面白い。
普段はそのとおりに従わざるを得ない現在、
そののっぴきならない時間さえ引き延ばしてしまえる、
感覚を狂わされる古典の「冗漫さ」や「気怠さ」に、わたしは夢中です。

 

さて、今月はいつ歌舞伎に行こうかしら。ルンルン。