シンデレラの回

梅雨ですね。
紫陽花がきれいに咲いています。

 

遅まきながら『シンデレラ』を観たわけですが。
途中、魔法使いの妖精さんが知人に似ていて、
もうその知人Oさん(仮名)にしか見えなくなってしまって、
わ〜Oさんだ〜目が大きい〜と思いながら楽しく観ていました。

 

シンデレラは「灰かぶりのエラ」が縮まって
ついた名前ということになっており、
それは意地悪な継母の二人の娘たちからつけられた、いわば蔑称でした。

 

蔑称という泥のレッテルをつけられたシンデレラは、
森の中で王子様と出会います。

 

この出会いが運命的なもので、
シンデレラストーリーという言葉で表現されるように、
王子様とシンデレラはあっという間に結ばれて
幸せに暮らすことになります。

 

ディズニー映画は必ず、
プロローグとエピローグにシンデレラ城が出てきます。
日本風に言えば役割としては
「昔々〜めでたしめでたし」くらいの意味合いだと思いますが、
作品によってはそこがゴシックホラーになっていたり、
色々と遊びが生まれるボーナストラック場面です。

 

映画『シンデレラ』のそれは、あぁここに
あの二人が幸せに暮らしているのかという感慨も勝手にわきました。

 

映画を観ていて、シンデレラはただ継母や姉たちに
「いじめられる」わけではないのだと改めて思いました。
「いじめ」の中身は、やってもやっても終わらない膨大な家事労働、
パワーハラスメント、ネグレクト、
劣悪な生活環境での寝起きなど多岐にわたっています。

 

だから、シンデレラが王子様と出会って幸せになることは、
長く辛い労苦の果てにつかんだ幸せなのであり、
どんなにそれが幸運だとしても受け取って当然です。

 

いじめられた代償として、
裁判で継母や娘たちを相手取って訴訟を起こすことも、
精神的ケアなどの現代的な治療も受けられない状況です。
だから、いじめを上回る幸福を手にするべきなのです。

 

そんなことを思いながら、シンデレラを観ていました。
東宝シンデレラ、という名称も納得です。
少女たちはそのタイトルを勝ち得るために、
どれだけのものを犠牲にし、どれほど努力するでしょう。

 

もちろん、「ラッキー」という意味合いが含まれるのはわかります。
シンデレラは、年収200万以下の労働者ではなく、
城を所有する一国の王子様と結ばれるわけですから。

 

でも、大人になってから観る『シンデレラ』は、
継母の悲哀なども少し理解できるような気がして、複雑な気持ちでした。

 

もちろん悲哀があるからと言って、「いじめ」が許されるわけではありません。

 

ディズニーが描きたいと思われる勧善懲悪な世界で、
継母は悪賢く、冷酷で、シンデレラをいじめますが、
彼女は悪魔ではなく人間として描かれていました。

 

物語の中で、夫とその実娘シンデレラとの真の愛情のつながりを
継母が垣間見るシーンがあるのですが、そのときの傷ついた表情は、
彼女もまた人間なのだなと思わせるものでした。

 

継母を演じたのは、美しきケイト・ブランシェット。
決して女であることを諦めない、素晴らしく憎たらしい継母でした。

 

女優として悪女を魅力的に見せるのはとても力量のいることであり、
見事な演技だった彼女にケイト姉△〜〜!という賛辞を贈って、
蔑んだ目で見られたいなと思いました。

 

同時上映された「アナ雪」の短編も可愛くって、観てよかったです。
やっぱり映画は映画館で観るに限ります。

 

映画館を出たあと、わたしもシンデレラ城という名の我が家に帰りました。
めでたし、めでたし。