いろいろあるよねーそだねー

始まってみたらテレビの前に座ってドキドキしながら見るものな〜んだ。
そうです、オリンピックです。
金、銀、銅。
それぞれの色の輝きをどう感じるでしょうか。
銀を「残念な結果」と言ったり、銅を「歴史的快挙」と言ったり、
報道の姿勢、国(というなんだか漠とした総体)の思惑、
どの選手を応援するかという個人的な感情等々、いろいろなものに影響されます。
順位というものが相対的であるのと同じように、
その価値は絶対的なものではありません。
「金より価値のある銀」とある人は言うでしょう。
「金以外は無意味だ」とまた別の人は言うでしょう。
わたしは、オリンピックを見るとどうしても画面の向こうの4位の選手に、
世界で4番目なんだから十分すごいじゃん、と話しかけてしまうのですが
みなさんもそんなことある?
冬季オリンピックは雪の中や雪の上などで行われるものが多く、
真っ白な世界に選手のウェアのカラーが映えて綺麗でした。

 

世界にはたくさんの色がある。
それは幸福なことだとわたしは思います。
メダルの色は3色ですが、国旗ひとつとってもわかるように、
世界が多様であることをその色は教えてくれている気がします。
何色も、何十色もあるということの複雑性、その多幸感。
色えんぴつが好きです。
眺め、コレクションする楽しさ。
減っていってしまうのは決まって好きな色でした。
デザインプロダクションにいるのに、
「図工」という授業にはあまり楽しい思い出がありません。
とにかく絵の具が苦手でした。
準備するもの、後片付けがあるものが苦手なのです。
したがって書道もいやでした。
墨汁、半紙、すずり、文鎮……小学生のわたしにとっては
大がかりな旅行の準備くらい用意するものが多く感じられ、
授業の前日は気が滅入ったものです。
転機が訪れたのは中学生の頃。
相変わらず後片付けは嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、
アクリル絵の具という画期的なものと出会いました。
それまでの水彩絵の具は、画用紙の上で意図しないにじみ方をして
ほとほとわたしは手を焼きましたが、アクリル絵の具はそうではなかったのです。
隣の絵の具と色がにじまない。画用紙もべこべこにならない。
なんてすてきな描き心地なのだろう。
わたしは、その頃からお手本の絵を見ながら同じ絵を描く、という行為が好きで
『もののけ姫』のサンの絵を描き宮崎駿の解説をするポスターを作りました。
でも、その絵に突出した独創性はありませんでした。
オリジナリティは「もののけ姫」や「サン」や「宮崎駿」にはありますが、
それをトレースするだけではただトレースしたに過ぎない。
アクリル絵の具の乾く音が非情にもわたしに告げます。
「ただのモノマネじゃん」
学校教育は、本物以上に本物に見える、もしくは独創性がある、
その二択にしか評価を与えてくれません。
同じものを同じように描こうと思った結果そうならなかった不思議な歪みを
面白いもの、味のあるものだと見てくれる視線は存在しませんでした。
サンの顔の不自然さ、色づかいの甘さ、上の下のような「もののけ姫」のものまね絵は、
ただの「◯」をもらって終わっていきました。
そこで教師のだれかから、あるいは今のようにSNSで知らないだれかに、
「いいね」をもらえたら、わたしはデザイナーになっていたかもしれません。
「宮崎駿」は明朝体で大きく描き、真っ黒に塗っていました。
いかにも『エヴァンゲリオン』に影響を受けすぎていて恥ずかしいです。
明朝体に憧れる中二病(昔はそんな言葉ありませんでしたが)を作り出した
エヴァンゲリオンは罪深いアニメです。
やっぱり、デザイナーにはなれそうにありません。
それでも多少なりともデザインの目は養われるもので、
昨年、ある舞台を観劇した際に遭遇したできごとを伝えたくて
持てる全てのデザイン力でそれを描いたところ、
「だてにデザイン会社に勤めていないね」と褒められました。
ありがとうございます。自信が出ました。棒人間でしたけど。
なにかができないからこそ、できるなにかがほかとは少し違うものになる。
それが時には、その人らしさになるでしょう。
というわけで、これからもトレースをがんばります。
夢はそうですね、個展を開くこと、にします。
4年後の冬季オリンピックまでに間に合うでしょうか。
トレース界を代表して晴れやかな気持ちで表彰台にのぼりたいです。
その前に、本業のコピーライティングもがんばります。